「俺が鬼か」社長に血書 水俣病65年、父は闘った

奥正光 長妻昭明、高木智子
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 自ら声を上げることなくして、被害が認められることはなかった。声を上げれば、たたかれた。そして今も。65年を経てなお解決をみない水俣病。その公式確認の日である1日、最愛の家族を亡くした患者遺族らが静かに手を合わせ、語り継ぐことを誓った。

 水俣湾を望む埋め立て地エコパーク水俣」には、「水俣病慰霊の碑」がある。1日午前、上野真実子さん(59)=熊本県水俣市=が訪れた。碑に向かって静かに手を合わせた。

 市などが準備していた犠牲者慰霊式はコロナ禍で中止に。上野さんが患者・遺族代表として読み上げる予定だった「祈りの言葉」がこの日午後、市のホームページに掲載された。

 私の記憶に残るのは、祖父の葬式で墓に行く父・川本輝夫の姿です

 1965(昭和40)年4月。あの日の父の姿と青い空が、脳裏に焼き付いている。3歳だった自分を連れた輝夫さん(当時33)は、祖父嘉藤太(かとうた)さんの棺に釘が打たれるのを遮り、とりすがって泣いた。祖父は、重篤な水俣病患者にみられる狂騒状態で亡くなったが、患者と認められなかった。

 父の行動は、この慟哭(どうこく)から始まりました

 輝夫さんは嘉藤太さんの死を機に、水俣病と困窮に苦しみながらも差別を恐れて名乗り出ることができないでいる患者の掘り起こしを始めた。夜になると自転車で出かけ、隣の鹿児島県へも足を運び、患者認定の申請を勧めて回った。

 輝夫さん自身も手足のしびれなどに苦しんだ。患者認定を申請したが2度棄却され、行政不服審査で棄却を取り消す裁決を勝ち取った71年から、水俣病の原因企業チッソの本社(東京)で座り込んだ。補償を求めた直接交渉は1年7カ月に及んだ。

 家族を殺され、自分自身も傷つきながら、水俣病事件によって破壊された人としての尊厳を取り戻そうとしたのが、父の水俣病事件の闘争でした

 「俺が鬼か。おやじは69で死んだぞ。精神病院の畳もなか部屋で。牢屋のごたる(ような)おりの中で一人で死んだぞ」。チッソ社長らを前に嗚咽(おえつ)し、積年の思いをぶつけ、カミソリで自らの指を切って血書も書いた。

 水俣の自宅には嫌がらせの電話やはがきが相次いだ。「死ね」「非国民」……。小学生だった真実子さんは差別におびえたが、母ミヤ子さん(90)は揺るがなかった。

 (母は)私たちきょうだいに、父は「何も悪いことはしていない。患者さんのために闘っている」と教え続けました。私たち家族は、父を支えるため、必死で生きてきました

 家族の団結は東京の輝夫さんを支えた。その証しが、輝夫さんの日記(72年)に残っている。「妻、(長男の)愛一郎、真実子からの励ましが唯一の支えだ」「真実子の可愛らしい電話の声に飛んで帰りたい郷愁にかられる。当分望めそうにもない」

 輝夫さんたちの闘いは、73年7月に補償協定として実を結び、今も患者補償の根拠となっている。輝夫さんは99年に67歳で他界した。

 真実子さんは小学校教諭になり、子供たちと水俣病を学び、「水俣病は恥じることではない」と教えた。だが、患者家族の病苦に追い打ちをかけた差別は、無くなったとは言えない。

 水俣病事件でも起きていた匿名の中傷・差別が、形を変えてたくさんの人を傷つけています。自分自身も注意深く見極めていかなければ、差別をする立場に立っていることにさえ気づかないかもしれません

 公式確認から65年の今年は、水俣病を世界に伝えた米国の写真家ユージン・スミス(1918~78)を俳優のジョニー・デップさんが演じる映画「MINAMATA(ミナマタ)」が全国公開される予定。映画では真田広之さんが、輝夫さんを思わせる「闘士」の命がけの訴えを演じている。

 水俣病は、潜在被害の広がりや補償、差別など課題を残したまま。解決に向けて、「被害の全容が明らかにされ、どのように解決していくか、みんなで議論し続けることが大事」と思う。

 水俣病事件の教訓を生かし、大人たちは事実を受け止め、間違いは正し、知恵を絞り、話し合いを重ね、努力してきた。そう胸をはって、未来をになう子供たちに言えるようになりたい(奥正光)

高齢化進む慰霊祭 「苦しみ、ずっと続いている」

 患者団体の水俣病互助会が1日、水俣市袋(ふくろ)の「乙女塚」で営んだ慰霊祭は、コロナ禍を受けて例年より規模が縮小された。患者やその家族ら約40人が、水銀汚染で失われたすべての命に祈りを捧げた。

 慰霊祭は41回を数え、年々、参加者の高齢化が顕著という。この日も、体を支えてもらったり杖をついたりして、一人ひとりが焼香を上げ、手を合わせた。

 母親の胎内で水銀にさらされた胎児性水俣病患者の坂本しのぶさん(64)は、車椅子ごと周囲の人に抱えられ、高台にある乙女塚に来た。公式確認後の水俣病の歴史と自身の半生がほぼ重なる。「だんだんと足や体全体が苦しくなってきて、この先もっと体が悪くなっていくことが心配。水俣病になっていなければ元気だったと思うと悔しい。チッソが憎い」とうつむいた。

 65年前のこの日、「原因不明の病気」として入院先の病院が水俣保健所に届け出て、公式確認につながった患者田中実子(じつこ)さん(67)は、市内で24時間の介護を受けながら暮らす。義兄の下田良雄さん(73)は「(実子さんが)2歳11カ月で発病して以来、物も言えなくなって65年。ずっと苦しみが続いている。体が硬直しても、本人ではどうすることもできない。最近は笑うこともない」と現状を語った。(長妻昭明、高木智子