第6回ヘリ事故直後に赴任「運命と思う」 元校長が語る普天間

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聞き手=国吉美香

拡大する写真・図版証言 動かぬ25年 普天間返還合意

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 このテーマについて考えるには、この人に会わないわけにはいかない。そう思い、記者が沖縄で訪ねたのは桃原修さん(61)です。米軍普天間飛行場の返還合意のとき、父親は地元宜野湾市の市長。20年余り後、自身が校長として赴任したのは飛行場と隣り合うあの小学校でした。定年後のいまも、宜野湾で暮らす桃原さんは「ある変化」についても話してくれました。

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なぜ、普天間は動かないのか。これからどこへ向かうのか。米軍普天間飛行場沖縄県宜野湾市)の電撃的な返還合意から25年。節目の今年、ワシントン、東京、沖縄にいる朝日新聞記者たちが、日米沖の政治家や官僚、識者や普天間周辺で暮らす人たちに取材しました。

 ――ニュースでもよく見聞きする普天間第二小学校の校長をされていました。飛行場との間には道路もない。金網フェンス一枚で隔てられたところにある学校ですね。

 「赴任したてのとき、校庭の端っこに座って1時間ほど、運動場での授業の様子を見ていたことがあります。米軍機が飛ぶと、『避難してください』といった声が運動場に響くんです。校舎の屋上と運動場に防衛省沖縄防衛局が置いた監視員と誘導員がいて、呼びかける。そのたびに授業は中断する。それが何回もあるんです」

 ――重さ7・7キロの窓が、上空を飛ぶ米軍ヘリから校庭に落ちてきた事故後のことですね。

 「6年生の生徒が近寄ってきて、こう言われたこともありました。持久走で1千メートルの測定をしていて、もうちょっとでゴールっていうのに『避難』がかかった。それで測定はやり直しになった。もうやりたくないよ、って」

 「こんなの、学校の光景と思いますか? 涙が出ました。『普通』を取り戻そう。私は校長として、みんなにそう呼びかけることにしました」

拡大する写真・図版桃原修氏と普天間飛行場との関わり

とうばる・おさむ

 1959年、沖縄県宜野湾市生まれ。桃原正賢元宜野湾市長(故人)の次男。2017年12月に発生した普天間第二小学校への米軍ヘリの窓枠落下事故後、18年4月に同小に校長として赴任し、20年3月に定年退職。同年12月からは市教育委員を務める。

 ――誹謗(ひぼう)中傷も受けたと聞きました。

 「私が報道の取材に答えてテレビなんかに流れると、『そんな危険な状況で子どもたちを遊ばせているなんて、頭がおかしい』とか。『責任をとれないなら舌かんで死ねよ』と言われもしました」

 ――事故が起きたのは2017年12月13日。桃原さんが赴任されたのは翌年4月。定年まであと2年のタイミングですね。なぜ、赴任することになったんですか。

 「希望したんです。でも、希…

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