浪人も脱サラも世界に羽ばたいた 太鼓集団・鼓童40年

有料会員記事

古西洋
[PR]

 世界的な太鼓芸能集団「鼓童」が結成から40周年を迎えた。新潟・佐渡島を拠点に世界52の国と地域を舞台に活動を続けてきた。その始まりは半世紀前に島にやって来て「鬼」となった若者たちだった。彼らはどうして島に根付き、羽ばたいていったのか。(文中敬称略)

写真・図版
舞台で熱演する鼓童=2020年10月、新潟県佐渡市の両津文化会館

 トキの舞う佐渡島中心部の畑野地区。新緑に囲まれ築百年ほどの洋館がひっそりとたたずむ。かつての医院は住む人のいない廃屋となり、外壁の色から「ピンクの元医院」と呼ばれる。文化財として残そうという運動が始まっている、この建物は鼓童の前身「佐渡の國鬼太鼓座(おんでこざ)」の旗揚げ時の宿舎だった。

 創設したのは田耕(でんたがやす)(故人)。東京出身の田は学生運動をへて全国各地を放浪し、伝統芸能の鬼太鼓が伝わる佐渡島にたどり着いた。師事していた在京の民俗学者宮本常一(故人)らの支援を得て、佐渡島に伝統文化と工芸を学ぶ「日本海大学」と「職人村」を造るという構想を打ち上げた。

写真・図版
鬼太鼓座の宿舎だった元医院=新潟県佐渡市畑野

 宮本と同じ武蔵野美術大学(東京)で教えていたインテリアデザイナーの島崎信(まこと)・同大名誉教授(88)も田を支援した。「大学と職人村を造るための資金集めのために結成したのが鬼太鼓座だった」と振り返る。

 田は参加者を募るため積極的にメディアを使った。支援者の1人だった作家永六輔(故人)は担当したラジオの深夜番組で田の運動への参加を若者に呼びかけた。

 こうして50年前の1971年4月、田以下11人のメンバーが集まった。全員が高度成長期の日本社会になじめない島外の10、20代の若者。浪人生や大学中退、脱サラの男女だった。太鼓の経験者は皆無で、のちに看板奏者となる学生林英哲(69)や勤め先を辞めた藤本吉利(70)らも加わった。やがて一座の生活は午前5時前に起床し、体力作りのためのランニングと稽古に明け暮れる修行僧のような日々となっていった。

写真・図版
コロナ禍で昨年中止となった本拠地佐渡島・宿根木での2年ぶりの公演が4月29日、感染対策を講じて開かれた=4月29日、新潟県佐渡市の宿根木公会堂

 宿舎を提供したのは佐渡島高校教師本間雅彦(故人)。本間は鬼太鼓など地元に伝わる芸能や郷土史の研究者として知られ、宮本とも親交があった。佐渡島に行き着いた田を自宅に住まわせて鬼太鼓座を結成前から支えた。鬼太鼓座に貸した元医院は妻の実家だった。

 佐渡島江戸時代から伝わる伝統芸能の鬼太鼓は、神社の祭りで集落の厄払いをつかさどる。本間は鬼を「超人的な魔力の持ち主で神の変身」とみた。その著書「舟木の島」では「鬼族のよさを天下にしらしめることをやるべきです。最近島にできた『おんでこ座』(原文のまま)は、とくにこうした役割を果たしてくれるだろうと信じています」と記している。

 宿舎の元医院には屋内に稽古のできるスペースがなく、一座は屋内で稽古のできる場を求めた。当時、関西財界からの寄付があったものの、一座に助け舟を出したのは島の行政だった。

記事の後半では、若者たちが島に受け入れられ、世界的な太鼓集団に成長するまでの歩みや、主宰者の田との決別など波乱の経緯を追います。

■島で支えた創成期 マラソン…

この記事は有料会員記事有料会員記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。