2009年に誕生した鳩山政権は、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の「県外移設」をめざします。日米交渉に当たった黒江哲郎・元防衛事務次官(63)に舞台裏を聞きました。その中から浮上した米軍基地の日米「共同使用」構想は、抑止力強化の思惑を含んでいました。
――2009年9月に誕生した鳩山由紀夫首相の米軍普天間飛行場の「県外移設」方針の下、防衛省防衛政策局次長として担当することになりました。
「米国にいきなり『県外』をぶつけるのはどうかということで、09年のうちは、自民党政権で06年に日米が合意した(名護市辺野古にV字形の滑走路をつくる)現行案に至る経緯の検証から入りました。その時点で、岡田克也外相は県内の米軍嘉手納基地への統合案に、北沢俊美防衛相は現行案の修正に言及している状態で、内閣は『県外』で一枚岩とは最初から言えませんでした」
――米側との交渉はどんな状況だったのですか。
「09年末に政府・与党の沖縄基地問題検討委員会ができ、鳩山首相が結論を出す期限とした5月に向けて、議論は年明けから本格化しました。1996年に普天間の返還合意がなされた当時や2006年の現行案決定に向けて省内で検討されたものを含め、代替施設案は北海道から沖縄まで40ほどありました。ただ、中国、北朝鮮への対応がより重要になっているのに台湾海峡や朝鮮半島から遠ざかるのは戦略的に成り立たないので、九州への移設と沖縄県内への移設の各10案ほどの中から、数案を米側に打診しました」
黒江 哲郎
くろえ・てつろう 1958年生まれ、山形県生まれ。東京大学法学部卒。旧防衛庁に81年、文官の「背広組」として入庁。省昇格後に運用企画局長や官房長、防衛政策局長、事務次官を歴任し、2017年に退官した。現在は、三井住友海上火災保険顧問。
――その時点で「県内」も念頭にあったのですね。
「鳩山内閣自体が『県外』を徹底的、具体的に追求するというより、とにかく自民党政権が作った現行案とは違うものにしたいという姿勢でしたから。九州への移転もいろいろと検討しました」
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なぜ、普天間は動かないのか。これからどこへ向かうのか。米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の電撃的な返還合意から25年。節目の今年、ワシントン、東京、沖縄にいる朝日新聞記者たちが、日米沖の政治家や官僚、識者や普天間周辺で暮らす人たちに取材しました。
――米側の反応は。
「打診した案には、普天間飛…
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