五・一五事件は現代への警告 蔓延する絶望と政治の責任

有料会員記事

聞き手・稲垣直人
[PR]

 89年前のきょう、1932(昭和7)年5月15日に海軍青年将校らが起こした五・一五事件。当時の犬養毅(つよし)首相は凶弾に倒れ、衆院を基盤とする政党が内閣をつくる「政党政治」は崩壊した。だが、話はそう単純だったのか?と、歴史学者の小山俊樹さんは指摘する。この事件から見えてくるもの、現代社会への教訓とは。

 ――五・一五事件で軍が暴走し政党内閣が終焉(しゅうえん)、という言説にあえて疑問を投げかけていますね。

 「大きく言えば、『軍が暴走した』のはその通りです。しかし、現実にはもっと複雑な動きがありました。21(大正10)年に原敬首相が暗殺され、30(昭和5)年には浜口雄幸首相が狙撃されて後に死亡しましたが、政党政治は終わっていません。ではなぜ、5・15で政党政治は終わったのか? これが疑問の出発点でした」

1976年生まれ。専門は日本近現代政治史。近著「五・一五事件」(中公新書)はサントリー学芸賞受賞。その他の主著に「憲政常道と政党政治」「評伝 森恪」。

 ――そこで、昭和天皇の言動に着目したわけですね。

 「次の首相を選ぶ役目を担っていた元老・西園寺公望(きんもち)の判断に天皇が影響を与えた、と考えています。そのカギは、天皇が犬養の次の首相について『希望』を伝えた覚書です。現在、インターネットでも写真を見ることができます」

 ――何と書いてあるのですか。

 「『ファ(ッ)ショに近き者は絶対に不可』『首相は人格の立派なる者』などに加え、『協力内閣と単独内閣などは問ふ処にあらず』とあります。ここがポイントです」

 ――協力内閣、単独内閣とは?

 「犬養の次の内閣をめぐっては、二つの有力な案がありました。一つは、陸軍が支持する平沼騏一郎(きいちろう)・枢密院副議長を首相とする『協力(連立)内閣』案。もう一つは、犬養の後に与党・政友会総裁となった鈴木喜三郎を首相にする西園寺の『単独内閣』案です。鈴木が首相となれば政党政治は保たれましたが、天皇は再考を求めたと私は見ています」

 ――なぜそう考えるのですか。

 「犬養の一つ前の若槻礼次郎内閣が倒れた時に、一つのヒントがあります。ここでも『次は協力内閣で』との声が上がったのですが、西園寺が単独内閣を唱え、犬養内閣ができました。西園寺はまた、軍部に近い平沼による協力内閣はあり得ないとし、天皇もそのことは十分わかっていました」

 「天皇の希望は一見、協力内閣か単独内閣かの選択肢を示したように読めます。しかし、西園寺の『単独』へのこだわりを踏まえると、天皇は『今度は単独にこだわらず、人格重視で首相を選んだらどうか』と示唆したと考えられるのです。西園寺も天皇の示唆を理解し、結果、穏健派ながら政党とは関係を持たない海軍の重鎮、斎藤実(まこと)が次の首相に就きました」

 ――なぜ今まで、その説が提示されなかったのでしょう。

 「私はもともと五・一五事件そのものでなく、24年から32年までの戦前の二大政党制を研究していました。歴史の当事者は、ある一時点にぽつんと存在しているのでなく、そこに至る様々な経緯も背負っています。5・15という『点』だけでなく、それ以前の行きがかりを踏まえ、歴史を『線』で考えたからかもしれません」

西園寺は政党政治を「中断させた」 そして軍部がさらに台頭

 ――天皇はどんな思いだったのでしょう。

 「天皇は当時、政党政治に不信感を抱いていました」

小山さんによると当時の日本政治は二大政党の過度な競争により混乱していました。記事後半では、天皇と元老が苦渋の判断に至った経緯や社会情勢を解説します。

 ――というと?

 「この時の2大政党である政…

この記事は有料会員記事有料会員記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。