羽柴秀長と徳川家康の「制札」発見 北方の西順寺 岐阜

松永佳伸
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 岐阜県北方町清水の西順寺(三浦まゆみ住職)で、戦国武将だった羽柴秀長の禁制と徳川家康朱印状を書き写した「制札」が3枚見つかった。そのうち秀長の禁制は同寺から古文書も発見されていて、内容が一致した。制札は県博物館に寄贈され、戦国時代の権力構図などを探る史料として役立てられる。

 制札は、法規などを箇条書きにして道ばたや社寺の境内に立てて庶民に知らしめたとされる。見つかった3枚の制札は、同寺の時を知らせる太鼓がある「太鼓楼」に立てかけて保管されていた。三浦住職は「まったく気がつかなかった」と話す。大きさは高さ75センチ、幅42~47センチ、厚さ3センチの将棋の駒形をしている。

 同町などによると、西順寺の創建は1260(文応元)年で、明海が開山したのが始まりとされる。

 秀吉の弟にあたる秀長が禁制を出したのは1584(天正12)年9月12日。制札は2枚見つかり、軍勢の乱暴や放火、竹木の伐採などを禁止する3カ条からなる。西順寺がある北方地区の安全を保障されていることを知らせるため、野外に掲示されたとみられる。

 同じ内容の制札が2枚あるのは、腐食や変色が著しくなり、途中で作り替えたものと推測される。

 家康が書いた朱印状の日付は1600(慶長5)年9月23日となっている。

 同寺は昨年、所蔵品の整理をした際、収蔵庫から徳川葵の家紋とともに「東照大権現様」と墨書きされた木箱を発見。中から西順寺文書などが保管されていた。三浦住職は「貴重な歴史資料として公にすべき」と考え、県歴史資料館に寄贈した。

 県博物館学芸員の安藤均主任は、秀長の禁制は小牧・長久手の戦いで岐阜城主だった池田恒興が討ち死にした時期と一致。また、家康の朱印状関ケ原の戦いがあった9月15日から8日後になっていることに注目する。

 安藤さんは「制札はかなり風化していて、実際に屋外に立てられていたとみられる。文書と制札が両方そろっているのはかなり珍しい」といい、「秀長の禁制は小牧・長久手の戦いによって岐阜城主の交代時期にあたり、秀長を研究するうえでも貴重な資料になるのではないか」と話す。(松永佳伸)