「災害に負けん」「平和を祈る」 広島で聖火リレー

宮城奈々、比嘉展玖、福冨旅史 三宅梨紗子
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 コロナ禍でも聖火がつながった。東京五輪聖火リレーが17日、広島市中区平和記念公園であった。無観客となったうえ、雨が強く降る時間帯もあったが、聖火ランナーたちはそれぞれの願いを込めて晴れ舞台に立った。

 新型コロナウイルス感染拡大のため、公道でのリレーは中止となり、ランナーが走らずに、聖火をつなげる「トーチキス」が行われた。2~5メートルほどの距離を歩いて、次の走者のトーチに火を分けていくと、無観客の会場には、関係者らの静かな拍手が響いた。

 目は明るさがわかる程度で、耳はまったく聞こえないという全盲ろうの大杉勝則さん(58)=広島市=はリレー後、「火のあたたかさを感じて聖火リレーを実感した。スポーツも支援者がいれば障害があるなしに関わらず、楽しむことができると伝えたい」と手を重ね合わせて手話の動きを読み取り、伝える「触手話」で思いを示した。

 比治山女子高(広島市南区)陸上部3年の脇坂里桜さん(18)は「すごく緊張した。あっという間だった」とほっとした様子で話した。100メートルの選手で、中学時代には全国大会で3位に入ったが、不調やけがが続き、陸上をやめようか考えたこともあったという。だが、聖火ランナーに決まり、「前向きになれた」。「日本記録を出し、将来は選手としてオリンピックに出たい」と力強く言った。

 庄原市出身で16年リオ大会の競泳女子200メートル平泳ぎで金メダルに輝いた金藤理絵さん(32)は「ランナーを辞退するべきか迷ったが、(コロナ禍で)オリンピックが悪者になっているのが嫌だった。人の命が第一優先だが、選手は開催を信じて一歩一歩頑張っている。応援してほしい」と話した。

 最後は、元カープ選手の新井貴浩さん(44)が原爆死没者慰霊碑前からゆっくりと手を振りながら走り、広島国際会議場内の聖火皿に点火した。新井さんは「私は広島に生まれ、広島に育ててもらった。平和の象徴である聖火リレーに携わらせていただき、感謝しています」と話した。18日には福山市の市総合体育館周辺でリレーが行われる。(宮城奈々、比嘉展玖、福冨旅史)

 歓迎、期待、そして疑問。会場となった平和記念公園の外では様々な声が聞かれた。

 16日から緊急事態宣言が出され、人通りが減った広島市中心部の本通商店街。同市安佐北区の藤本敏夫さん(74)は「待ちに待った五輪。聖火リレーが中止にならなくてよかった」と話した。同市西区の男性(82)も「五輪は毎回、テレビにしがみついて見ている。コロナで気分が沈む中、開催に向かってほしい」と期待する。

 一方、県内の特産物などを扱う「ひろしま夢ぷらざ」の統括マネジャー、浅井洋樹さん(43)は「聖火リレーで人通りも増えると期待していたが、残念。今は五輪より、困っている飲食店、生産者の方の力になることが優先」と話した。会社員の女性(36)は聖火リレーが始まったことを「知らなかった」といい、「見たくないし、興味もない。やりたかった人たちのエゴじゃないかな」と冷ややかだった。

 広島市中区の繁華街・流川では、コロナ対策の休業要請などに応じる飲食店が多い。居酒屋を経営する末永正さん(54)も12日から店を閉めている。五輪は「僕らの希望」としつつ、「補償は足りてないし、経営は厳しい」と苦しい胸の内を明かした。多額の税金が使われることに「正直、憤りを感じる」と吐露した。

 「気になって見に来たけど、全然見えないですね」。立ち入りが規制された平和記念公園の近くで、30代の女性会社員がスマホで写真を撮ろうとしていた。すぐそばに住む60代の主婦は「見えないところでやっても意味がない。お店も休業して自粛ムードの中、矛盾を感じる」と不満そうに話した。

 立ち入りを規制する柵の手前から、原爆死没者慰霊碑に向かって手を合わせる男性がいた。「(聖火リレーは)せんでもいい」。1歳のとき、爆心地から約1・2キロの東観音町(現・同市西区)で被爆した村上将昭さん(77)。慰霊碑には両親の名前が記された名簿が納められており、毎日訪れているが、この日は聖火リレーのため近づけなかった。(三宅梨紗子)

「災害に負けん!」地元に光を 西日本豪雨で被災・網本輝さん

 2018年7月の西日本豪雨で被災し、自宅が大規模半壊した坂町小屋浦の会社員、網本輝さん(36)は「聖火を復興の希望にしてほしい」と願って参加した。コロナ禍で、被災地を走る夢はかなわなかったが、終了後は「トーチを持ったら、笑顔が止まらなかった。幸せでした」と話した。

 3年前の7月6日は、雨が断続的に降っていた。午後7時半。自宅裏の山からの濁流が、轟音(ごうおん)とともに近くの橋をのみ込んだ。「逃げるぞ!」。妻とともに、山と反対方向にひたすら車を走らせた。土砂は自宅になだれ込み、腰の高さまで浸水。大規模半壊と判定され、リフォームが終わるまで、約8カ月間の避難生活を強いられた。

 土砂は地区の活気も奪った。坂町の直接死16人のうち、15人が小屋浦地区の住民。世帯数も、被災前の832世帯から1割近く減った。町内会主催の花見や祭りはにぎわいが薄れ、道ばたでの「井戸端会議」も見かけなくなった。

 そんなとき、聖火ランナーの募集を知った。東京五輪の理念のひとつが「復興」と聞いた。東京だけの遠い話だと思っていた五輪が、身近に感じられた。「自分が走ることで、少しでも地元に元気が戻れば」と応募し、選ばれた。

 久々の吉報に、地元は沸いた。被災以来、疲れた様子だったお年寄りの女性は目を輝かせ、「応援しとるよ」。道で顔をみるなり駆け寄って手を握り、「あんたは被災地の希望じゃ」と言ってくれた人もいた。

 坂町を走る予定だったが、直前のコロナ感染拡大で中止となり、悔しさは残る。それでも、「地元に暗い顔は見せられん」。被災地を背負う覚悟が、気持ちを切り替えさせた。

 聖火を次の走者に丁寧につなぎながら、心の中で叫んだ。「災害なんかに、負けてたまるか!」。地元に届けと、願いながら。

選手・コーチ・審判 五輪に縁 前回東京「金」・中谷雄英さん

 1964年の前回東京大会の金メダリストも広島で聖火をつないだ。柔道軽量級で金メダルを獲得した中谷雄英さん(79)=広島市佐伯区=だ。選手、コーチ、審判と立場を変えながら五輪に携わり続け、集大成として臨んだ聖火リレー。「非常に光栄。五輪の成功と平和を祈りました」と笑顔で話した。

 柔道は57年前の東京大会で初めて正式競技に採用された。当時、中谷さんは明治大の4年生。柔道と言えば日本のお家芸だ。「勝つのは当たり前。圧倒的な試合をせないけんかった」。猛烈なプレッシャーの中で臨んだが、見事全試合で一本勝ちをおさめて金メダルをつかんだ。「やっと終わったという気持ちが大きかった。でも表彰式で日の丸を見たらじーんと来たね」と振り返る。

 30歳を前に現役を引退。72年のミュンヘン大会では西ドイツ代表のコーチ、96年のアトランタ大会では審判として五輪に携わった。そして57年ぶりに東京に五輪がやってきた。かつての仲間や関係者に勧められ、「自分が盛り上げられるのなら」と聖火ランナーに応募した。「まさかこんな役まで回ってくるなんて。五輪に縁があったんかなあ」とほほえむ。

 新型コロナの影響で大会は1年延期に。今年の開催も危ぶむ声があがるが、「やっぱり開催してほしい。この年が最後という人もおるでしょう」と先輩として選手の気持ちを推し量る。

 朝鮮から引き揚げ、両親のふるさとの山口県大島町(現周防大島町)で幼少期を過ごした。小学校入学と同時に引っ越してきた広島は原爆の爪痕が大きく、復興からはほど遠く見えた。57年前、国立競技場のスタンドに駆け上がり、聖火をともす最終聖火ランナーの坂井義則さんの姿を覚えている。「戦争のない世の中になってほしいという気持ちは僕も同じ」と言った。

「筋電義手」知ってもらうために 事故で左手失う・蒲生啓明さん

 筋肉を動かす際の微弱な電流で手指を動かす「筋電義手」を知ってもらいたい――。東広島市の蒲生啓明さん(63)はそんな思いを胸にリレーに臨んだ。筋電義手を装着した左手を大きく振り、聖火を運んだ。

 自動車部品を製造する工場で働いていた2010年2月、左腕を機械に巻き込まれ、手首から先を失った。3カ月余りの入院生活を経て自宅に戻ると、それまで当たり前だった動作がほとんどできなくなっていた。ズボンのベルトを締められず、ワイシャツのボタンも留められない。「何をしてもできない、できない、できない……の繰り返し。落ち込みましたね」と当時を振り返る。

 そんなとき、妻が労働局のホームページで労災が原因の筋電義手の支給制度の記事を見つけてくれた。岡山県内の病院に1カ月間入院し、感覚をつかむための訓練を受けると、義手にかわった左手を少しずつ使いこなせるようになった。蒲生さんは「自分で靴下をはくことも皿洗いもできる。できることが格段に増えて前向きになれた」と話す。2年前からは支えてくれた地域の人への恩返しの気持ちを込めて、自治会長を務める。

 ただ、筋電義手はオーダーメイドのため最低でも150万円からと高価だ。定期的なメンテナンスも欠かせない。蒲生さんのように労災で支給を受けられる人は限られているという。「まずは多くの人に筋電義手を知ってもらうことが普及の入り口になる」と考え、聖火ランナーに応募した。リレー後、「無事に聖火をともせて、ほっとしている。ずっしりと重かった」と話した。