香取慎吾「つらいよね」 本番挑むパラ選手に心寄せて

榊原一生
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慎吾とゆくパラロード

 朝日新聞パラリンピック・スペシャルナビゲーターの香取慎吾さんがさまざまなパラ競技に挑戦する「慎吾とゆくパラロード」。今回は、陸上の義足ジャンパー、兎沢朋美選手(22)=富士通=と対談しました。足を切断し、人生のどん底を味わったからこそ言える、スポーツの魅力や勝つこと以外の戦う意義について語り合いました。

 開幕まで2カ月を切った東京五輪・パラリンピックへの「逆風」が強まっている。医療現場の負担が増す懸念があり、医療従事者らから中止を求める声も上がる。

開催の賛否「つらい、よね」

 香取さんがつぶやくように言った。

 《選手にとってつらい、よね?》

 兎沢選手が小さくうなずいた。

 《反対意見の方が多いのは、理解をしています。ただ、選手の立場では中止が決まらない以上は、出場を想定して準備をするしかないんです。》

 兎沢選手が本格的に陸上を始めたのは日体大に入学した2017年。元々スポーツは好きだったが、高校では理系を選択し、将来は建築関係の仕事を、と考えていた。進路を変えたのは、20年に自国で開催される東京パラを目指すためだったと言う。

 《大学の陸上部にはパラアスリート部門があり、パラ選手への奨学金制度も整備されていた。でも今、東京にすべてをかけてしまうのは、正直怖いんです。非開催となった時には思いが強い分だけ反動も大きいと思う。なので、次のパリ、その先のロサンゼルス大会まで見据えています。》

香取慎吾さんとパラ陸上の兎沢朋美選手による対談は5月29日付朝刊スポーツ面の「慎吾とゆくパラロード」でも、1ページを使って紹介します。

 静かにうなずいた香取さん。ふと兎沢選手の左足の競技用義足に目をやった。小学生の時に骨肉腫で左太ももから下を切断した兎沢選手の義足は、ひざ関節の役割をするパーツにブレード(板バネ)が装着されている。

 《走り幅跳びはその義足で踏み切って跳ぶんだよね。ひざ下切断の選手とは違ってひざ関節の機能を思うように使えないから難しそう。》

 兎沢選手は言った。

飛躍を遂げた大学時代

 《大学1年の時は基礎練習と走力を高め、初めて跳躍に挑んだのは大学2年の時でした。最初は恐怖でしかなかった。日常で両足が地面から離れることはないからです。競技では義足のひざは自分では制御できず、何もしなければブレードは垂れて体より先に砂に着地してしまいます。跳躍時に太ももの筋力で振り上げて垂れるのを防ぎ、体を斜めにして、義足を制御するようにしています。》

 使いこなす難しさを知った香取さん。

 《やっぱり練習の積み重ねなんだね。でも元々は理系の道に進もうと考えていたのが、体育大学に。つらいこともあった?》

 兎沢選手は苦笑いだ。

 《毎日辞めたいと思っていました。先輩へのあいさつは体育大学特有のやり方があって、競技でも普通の選手からすればアップのような練習も私にとってはついていくのがやっと。きつくて、なんてところに来てしまったんだと。毎日泣いていました。》

 香取さんは笑顔で言った。

 《僕もあったよ。元々ステージ上で歌って注目を集めるアイドルになろうと思っていた。でも急にコントやお芝居をやることになって……。演技指導では監督から「何やってんだ」ときつい言葉をかけられることもあった。なんでこんな人生になってしまったのかと。お陰でたくさんの人とも出会えたんだけど。兎沢さんは?》

 兎沢選手は一人の指導者の名を口にした。

 《水野監督です。監督がいなかったらここまでこられていないと思います。》

 水野洋子監督は15年のパラアスリート部門創設時から監督を務め、初めて指導した義足選手が兎沢選手だった。兎沢選手は当時を振り返った。

 《監督は他の義足アスリートから助言を得たり、論文を読んだりして強化に必要な情報を与えてくれました。私は義足で走った感覚などを監督に伝えて、2人で情報を共有し、手探りで効率のいい義足の動かし方を探っていきました。》

 香取さんはその成果が気になった。

 《走り幅跳びでどれくらい跳べるようになったの?》

 兎沢選手が答えた。

 《4月の国内大会では自己記録を更新する4メートル56をマークしました。始めた当初は3メートル台だったので、練習の成果は出てきています。目標は5メートルです。》

 香取さんは驚きを口にした。

 《ええ、すごくない。5メートルいけそう?》

 兎沢選手は言葉に力を込めた。

 《練習では4メートル80は跳べているので、その跳躍が本番でできたらいけると思う。》

選手として戦う意義

 大学4年で迎えるはずだった東京大会は1年延期となった。兎沢選手はこの春に日体大を卒業した。プロの道もあった中で、新たな活動先に選んだのは富士通だった。

 《社員としての雇用となります。プロに憧れもありましたが、社業と競技の両立という形態が、競技引退後の人生も考えた上でベストだと思って選びました。》

 香取さんが尋ねた。

 《会社ではどのような仕事を?》

 兎沢選手は言った。

 《東京オリパラ推進本部という部署で、主に大会に向けてのプロモーションなどを企画するところです。香取さんに今日、どうしても聞きたかったことがあるんです。香取さんを通してパラを知った人はたくさんいます。伝える意識の持ちようや情報発信の仕方について、どう考えているのですか?》

 香取さんは正直な思いを口にした。

 《戦略とかではなくて、選手の皆さんに会ってお話を聞いて、それをみんなに伝えているだけ。僕は18年の平昌パラを現地に見に行ったことが大きかった。選手だけではなく義足や車いすユーザーの競技関係者とも関わり人生観が変わった。現場に行って、人と会い、そこで感じたことを素直に発信すればそれで伝わるんだと思うよ。》

 大きくうなずいた兎沢選手。最後に競技者としての思いを語った。

 《足がなくなった時、私は死ぬほどのショックを受けました。でも陸上に取り組んだことで世界で活躍できる機会を得た。どん底からスポーツに救われたんです。健常者、障害者を問わず自分のパフォーマンスを見て、みんなが自分のことを肯定的にとらえるきっかけになればこんなうれしいことはない。それが私の戦う意義だと思うんです。》

 香取さんはほほえんだ。

 《応援しています!》(榊原一生)

 兎沢朋美(とざわ・ともみ) 1999年生まれ、茨城県出身。小学5年で骨肉腫を発症し、翌年に左太ももを切断した。2017年に日体大に入学し、本格的に陸上競技を始めた。19年、世界選手権女子走り幅跳び(義足T63)で銅メダルを獲得。東京パラリンピック日本代表に内定した。富士通所属。