30年前のあの日、私も「定点」めざした 雲仙・普賢岳

有料会員記事普賢岳

フォトアーカイブ編集部長・吉田耕一郎
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 30年前、43人が犠牲になった雲仙・普賢岳長崎県)の大火砕流。あのとき、私も「定点」を目指していた。

 1991年6月3日午後2時過ぎ。

 当時、入社5年目で朝日新聞大阪本社写真部員だった私は、雲仙・普賢岳の取材ポイントで「定点」と呼ばれていた高台に立っていた。そのわずか2時間後、この場所を大火砕流が襲い、報道関係者と地元島原市のタクシー運転手や消防団員ら43人が犠牲になった。

雲仙普賢岳の大火砕流で犠牲になったすべての方々に心から哀悼の意を捧げます。この文章は、30年前の6月3日に現地で取材した一人の写真記者として、記録を残す必要があるという思いで書きました。現場にいるからこそ分かる事もあれば、現場に近付きすぎて見えなくなることもあります。自分や取材に関わってくれた人の身を守り、その上で、現場の状況を多くの人に伝えるにはどうしたらいいのか。今後もずっと考え続けなければならない課題だと思っています。

 山のふもとの「定点」は、火砕流が流れ下る延長線上にあり、地上からの撮影地点としては絶好の場所で、各社の写真記者が常駐し、火砕流の写真を狙っていた。私は当日、大阪から長崎に入り、先輩部員に連れられてここに来た。

 朝日新聞は、その数日前、「定点」に常駐する形での取材を取りやめていた。上空からの分析で、大規模な火砕流が起きた場合、この場所は危険度が高いと判断したからだ。避難勧告も出ており、火山学者で九大島原地震火山観測所長だった太田一也さんの助言もあった。

 だが、初めて普賢岳の取材に来た写真記者は必ず1度はここに立ち寄った。普賢岳の様子が一番よく分かる場所だったからだ。私も、各社が待機している場所をこの目で見たい、という思いがあった。

 「定点」は、周りより少し高い位置にある。「もし火砕流が来ても、走ってさらに高台に逃げれば間に合う」と言う人もいた。カメラはすべて山に向けられていたが、報道陣を待つタクシーは、逆の方向を向いて止められていた。「火砕流が来た時に、すぐに逃げられるから」。それが理由だと聞いた。

 私が「定点」に立ってまもなく、山頂付近から「ゴロゴロ」という音が聞こえてきた。「音が聞こえたらとにかく逃げろ」。先輩部員に教わり、走ってタクシーまで逃げた。この時は火砕流は起きなかった。そのまま、島原市内の取材前線本部に戻った。

 あの大火砕流が起きる少し前、その日初めての火砕流が起きた。私はタクシーで別の取材場所だった大野木場小学校に向かう途中だった。私がこの目で見た初めての火砕流。水無川近くから何枚か写真を撮った。

 取材前線本部から無線連絡が入る。「また火砕流が起きるかもしれない。現場に急いで」。「現場ってどこですか」。そんなやりとりをしたことを覚えている。ここから小学校に着くには、かなりの時間がかかる。ならば比較的近い「定点」に行こう。そう思って行く先を変えた。もっと良い写真を撮りたいという意識が先に立ち、「定点」が危険な場所という認識は一瞬で消えていた。

 幹線道路から山に向かう道に入ってまもなく、43人を巻き込んだ、あの大火砕流が起きた。

思わず口に出た「戻りましょう!」

 「定点」まであともう少し…

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