大火砕流30年 被災の記憶、次の世代へ

棚橋咲月、小川直樹 榎本瑞希 三沢敦
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 あの日と同じように雨に見舞われた長崎県島原市が、鎮魂の祈りに包まれた。雲仙・普賢岳の大火砕流から30年となった3日、市内各地で追悼行事が開かれた。噴火災害を知らない世代が増える中、犠牲者遺族も当時を知る人たちも、記憶を伝えていくことへの思いをかみしめた。

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 仁田団地第一公園で午前10時からあった市主催の追悼式には、遺族ら約150人が参列した。

 会社員の樋口常洋さん(58)は、九州管区機動隊員だった弟の隆洋さん(当時26)を亡くした。隆洋さんは「(報道関係者らの)避難誘導に行く」と言って、大火砕流に巻き込まれたという。「最期まで責務を全うしたのだと思う」と樋口さん。

 樋口さんが隆洋さんに最後に会ったのは、大火砕流の2年前の自身の結婚式。隆洋さんは「将来は刑事になりたい」と話していたという。「本人も残念だったろう。どうか安らかに眠ってほしい」と話した。

 介護職の大町亮介さん(36)は、消防団で活動中に犠牲になった父安男さん(当時37)と、遺族代表であいさつした寿美さん(64)の次男だ。「気持ちが癒えることはないが、30年という月日が経ち、いつまでも悲しむより後世に何があったか伝えていきたいと思うようになった」と話した。(棚橋咲月、小川直樹)

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 島原復興アリーナ横の消防殉職者慰霊碑では、午前8時すぎから遺族が花を手向けた。

 島原市の中学校教諭・山下譲治さんは、母や長女らと、亡くなった父・日出雄さん(当時37)に祈りを捧げた。「毎年この日が来ると、けが人がトラックの荷台で運ばれていく様子や、父が亡くなった病院の光景を思い出す。悲しいけれど、忘れないようにしたい」と話した。

 当時中学生だった譲治さんは、火砕流の発生前から家族と避難生活を送っていた。消防団の分団長だった父は避難誘導の任務に当たり続け、最後に何を話したかは記憶にない。「スポーツ万能で自慢の父だった」

 30年経った今なお、父の犠牲について「受け止めきれていないこともある」と話す。「なぜ、どのようにして亡くなったのか、真実はこれから明らかになっていくのではないでしょうか」

 被災時に通っていた市立第三中学校で教壇に立ち、昨年は後輩たちに自身の被災経験を語った。譲治さんは「住民としてずっと伝えていかなければ」と話した。(榎本瑞希)

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 午後4時8分。大火砕流の発生時刻にサイレンが鳴りわたると、島原市内の各地で遺族や市民らが黙禱(もくとう)した。

 犠牲になった報道陣の撮影ポイント「定点」でも遺族が手を合わせた。

 大阪府茨木市から来た石津勝さん(62)は毎日新聞の写真記者だった兄を亡くした。定点を離れて避難した後、また引き返して火砕流に巻き込まれたという。

 山登りが趣味でまじめで慎重な性格だった兄が、なぜ逃げなかったのかを考え続けた30年だった。「災害の記憶を風化させないためにも、正確な事実を掘り起こして後世に残していってほしい」

 犠牲になった消防団員の詰め所だった近くの農業研修所跡地でも、遺族らが黙禱した。慰霊碑が立つ仁田団地では、古川隆三郎市長らが祈りを捧げた。(三沢敦、棚橋咲月)

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 「災害の記憶を若い世代に語り継ぐ」と題した雲仙岳災害記念館主催の防災シンポジウムがこの日午前、オンラインで開かれた。各地で防災教育や伝承活動などに携わるパネリストが、取り組みや課題について互いに意見を交換した。

 北淡震災記念公園(兵庫県淡路市)の総支配人で、阪神・淡路大震災語り部の米山正幸さんは「地震や噴火などの体験を共有することで教訓は発信できる」と述べ、「語り部は体験者でなくてもなれる。多くの若者に伝承活動に加わってほしい」と呼びかけた。

 磐梯山噴火記念館(福島県北塩原村)館長の佐藤公さんは、出前授業や防災講座など自身の取り組みを振り返り、「伝承のベースになるのは防災教育。副読本などの優れた防災教材も必要だ。火山の怖さだけでなく恵みにも触れ、悪い避難の例と良い例を比較することなどで子どもの理解は進む」と指摘した。

 中学3年生の時に岩手県釜石市東日本大震災を経験し、伝承施設でのガイドを経て防災教育会社を立ち上げた菊池のどかさんは、伝承を担う人の裾野を広げるべきだと主張。「語り部という特定の認証制度を設けるのではなく、多くの人たちが5分でも10分でも話せる環境を整えることが最優先の課題」と訴えた。

 雲仙岳災害記念館の長井大輔・調査研究室長は、語り継ぐ工夫として「歴史的事実を伝えるだけでなく、感じた『思い』を残すことも大事だ。それが共感につながり、多くの人が『自分のこと』として考えるきっかけになる」と強調した。(三沢敦)

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 報道関係者らが犠牲となった「定点」のあった長崎県島原市北上木場町では3日午前11時半、整備された災害遺構に建てられた石碑の寄贈式があった。

 「定点」付近は今春、火砕流に巻き込まれた報道車両を掘り起こし、災害遺構として整備された。石碑は整備を手掛けた地元の「宮本造園」が、犠牲者を慰め、元住民がふるさとを思い出せるようにと制作。地元安中地区に寄贈された。

 社員の宮本直樹さん(28)から目録を受け取った同地区町内会連絡協議会長の阿南達也さん(83)は、「いつまでもいつまでも守り続けていく」と話した。

 直樹さんは火砕流のちょうど2年後に生まれ、社長で父の秀利さん(71)が取り組む被災地の植樹に幼いころから参加。自然の恐ろしさと恵みを感じ、父と同じ造園の道に進んだ。

 合掌する両手を模した石碑にはコケが芽吹いていた。直樹さんは「大事なのは草に埋もれさせることなく、伝えていくこと。地域全体で守っていきたい」と話した。(榎本瑞希)

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 長崎県島原市平成町の雲仙岳災害記念館では3日午後3時から、元市職員の内嶋善之助さん(68)が、火砕流発生当時の日記の一部を朗読した。見学者ら約20人が聴き入った。

 当時、観光担当の部署にいた内嶋さんは、大火砕流発生当日の夜から避難所の運営に携わった。このとき見た光景を「異常な火山灰と恐怖に満ちた街」と表現した。日記は当時書き留めていたもので、この春自費出版した。

 朗読を終えて、内嶋さんはこう言った。「若い人に伝えたい。スマホで何でも調べられる時代になったが、どんなに知ったつもりになっても災害は想像を超える、と」(榎本瑞希)