コロナ禍、異例の聖火リレー 秋田できょうから

井上怜
[PR]

 東京五輪聖火リレーは8日と9日、秋田県内を走る。「平和・団結・友愛」といった五輪の理想を伝えるものとして続いてきた聖火リレーは、人々の熱狂の象徴となり、時に政治的な意味合いも帯びてきた。今回は、新型コロナウイルスの感染が広がる中での異例の開催となっている。(井上怜)

 聖火は山形から入り、2日間で14市町村の計30キロを走って青森に引き継ぐ。ランナーは一般公募で選ばれた県民や、著名人らのPRランナー、スポンサー枠などの計180人で聖火をつなぐ。

 8日は午前9時40分に湯沢市役所をスタートし、この日は横手市大仙市など7市町を巡る。由利本荘市では子吉川を競技用ボートで運ぶ。夜に秋田市に入る。9日は午前9時に潟上市の出戸浜海水浴場駐車場を出て、男鹿市能代市など7市町村を回って鹿角市の花輪スキー場に着く。

 走者が一筆書きで県内を回るわけではなく、各市町村内の一部を走ったのち、聖火を車に乗せて次の自治体まで運ぶ。1区間約200メートルで、最も区間が多いのは大仙市の18区間。最も短いのは男鹿市で、赤神神社五社堂までの1区間を約2分だけ走る。

 各自治体は、観覧する際は密を避け、マスクを着用するよう呼びかけている。新型コロナ感染対策のため、秋田市では秋田駅前の公道走行を取りやめてコースを短縮したり、県全体で吹奏楽の演奏などのイベントを中止したりする。

     ◇

 前回の東京五輪聖火リレーが秋田入りしたのは1964(昭和39)年の9月20日。青森県から県境の矢立(やたて)峠で引き継がれ、同26日まで279キロを4千人以上のランナーがつないだ。

 当時の秋田魁新報は、連日大きな写真とともに《高らかにファンファーレが鳴りわたり、あらしのような歓呼》《民家の二階から、デパートの屋上から盛んな拍手と紙ふぶきが舞った》と沿道の熱い歓迎ぶりを伝えている。

 「ものすごい歓声で、緊張しました」。秋田市の第一走者を務めた中川衛(まもる)さん(75)は振り返る。当時は秋田工高3年生で、直前の新潟国体や高校総体の陸上5千メートルで優勝していた。

 秋晴れの9月24日午前9時半。県議会議事堂前に仮設スタンドが設けられ、約1万人の観衆の中で開かれた出発式で、小畑勇二郎知事(当時)に聖火を託された。「全国を回った聖火を国立競技場まで届ける使命感と責任感がありました」

 沿道にも日の丸の小旗を振る人が詰めかけ、市内の大町付近まで約1・2キロを走りきった。中川さんは「今回の聖火リレーは様子が変わるでしょうが、無事に聖火をつないでいくことが大事」と話した。

     ◇

 東京五輪パラリンピックの組織委員会は、聖火リレーの役目を「平和・団結・友愛といった五輪の理想を体現し、関心と期待を呼び起こす」と説明する。今回の五輪の意義について、政府は誘致時に、東日本大震災への支援に対する感謝や再興した被災地の姿を世界に伝える「復興五輪」を唱えた。菅義偉首相は「世界の団結の象徴」「人類が新型コロナに打ち勝った証し」などと強調している。

 歴史を振り返ると、五輪は政治的な意味合いを帯びてきた。

 聖火リレーが初めて行われたのは、ヒトラー率いるナチス政権下で開かれた1936年のベルリン大会。「古代と現代を聖なる火で結ぶ」というスローガンのもと、古代オリンピック発祥の地、ギリシャ・オリンピアからバルカン半島を経てベルリンに届けられた。第2次大戦では、ドイツはこのルートを逆にたどって他国に攻め込んだとされ、戦争準備のための情報収集に利用したとの指摘がある。こうした経緯から、大戦後の48年に開かれたロンドン大会では聖火リレーの可否が議論されたが、「平和の象徴」と位置づけられ存続することになった。

 2008年の北京五輪では、中国・チベット自治区などで起きた騒乱時に多数の死傷者が出た問題をめぐり、中国政府の対応への抗議が世界中で巻き起こった。当時の聖火リレーは複数の国をまたいで行われていて、聖火が長野県をリレーした際に隊列に人が走り込んだり、物が投げ込まれたりする混乱が起き、逮捕者が相次いだ。

 聖火リレーはその後、原則ギリシャと開催国のみにしか認められていない。