納屋に息を潜めた4年 看護師のハグ、涙こらえ切れず
「何を話しただろう」
同僚たちとたまに深酒をした翌朝は、いつも不安になった。
酒の勢いで口がなめらかになり、余計なことを話したかもしれない。そう思うと、自分の秘密を知られるのではないかと恐れた。
ハンセン病だった事実を、決して知られてはならない――。
元患者の山岡吉夫さん(72)は、そんな重圧にずっと苦しめられてきた。
目立つほど大きな後遺症はなく、自分から病歴を明かす必要も無いと考えた。
ハンセン病療養所を出た後、食品会社で30年ほど働いてきた。
でも、元患者だったとの秘密がばれないように同僚たちとの深い付き合いは避けてきた。
療養所に8年 地元に居場所なく
自分がいた形跡を消しながら生きてきた。
西日本で生まれ、小学6年生の頃にハンセン病療養所の長島愛生園(岡山県瀬戸内市)に入った。
病状が落ち着き、8年後に実家に戻ったが、「浦島太郎みたいだった」。8年の空白は家族との関係をぎこちないものにさせ、友人とのつながりも失わせた。
地元に居場所はなかった。知り合いのいない東京を目指し、多磨全生園(東京都東村山市)に移った。園の看護師の住所を書いた履歴書を使って就職し、その後は都内のアパートなどで暮らした。
「病歴を話したら離婚された」。ハンセン病を理由にした差別の話は、何度となく元患者たちから聞かされていた。社会に出ても、自分から病歴を明かす気は全く無かった。
12年に多磨全生園に戻った。昔の交通事故の後遺症が出てきたことがきっかけだ。
「独り身でしょ。何かあって…