商売道具の太鼓も借金の形に 名呼び出しの人生

鈴木健輔
【動画】なるほど大相撲「裏方編」呼び出し
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 東京・国技館相撲博物館に、角界にまつわる用語を50音順に整理したファイルがあって、めくっていると面白い。「ふ」の欄に「フグ」とあり、過去にフグにあたった力士の名が並んでいる。「よ」の欄に、こんな項目があった。

 「呼出し太郎履歴書」

 国会などで「ぎちょお(議長)ーーっ」と大声を張り上げる議事進行係の議員を「呼び出し太郎」と言うが、大相撲に実際、太郎という呼び出しがいた。角界で初めて、生存者叙勲を受けた太鼓の名人だ。

 「履歴書」などによると、本名・戸口貞次郎。1888(明治21)年、俥屋(くるまや)の長男として現在の東京都墨田区亀沢に生まれた。

 「太郎」と呼ばれるようになったのは二葉小学校に通った頃。隣に住んでいた大関、初代朝潮太郎の家によく遊びに行っていたため「太郎」で定着した。朝潮の紹介で呼び出し界の重鎮・長谷川勘太郎に師事。10歳で近くの出羽海部屋に入門し、呼び出しになった。

 15歳の時、関脇源氏山頼五郎らが企画した米国巡業計画に参加。だが当時の東京相撲協会の許しを得られず、「脱走」扱いに。日ロ関係悪化のあおりで渡米がかなわず、日本全国や朝鮮半島、満州で巡業を打つ放浪の旅に出た。

 道中の顚末(てんまつ)は「呼出し太郎一代記」(1954年、前原太郎著、ベースボール・マガジン社)などに詳しい。バクチと借金、夜逃げを繰り返す、あてのない旅だったらしい。

 1908(明治41)年、後の横綱大木戸森右衛門に誘われて大阪相撲で再起。27(昭和2)年、大阪呼び出し組合を引き連れて東京相撲に合流した。太鼓ひとつで、名を挙げていく。

 土俵づくり、太鼓、力士の呼び上げが呼び出しの三大仕事と言われ、現代ではオールマイティーが求められる。当時は分業制。太郎といえば太鼓だった。ばちさばきは天才的と称された。親分肌で年下から慕われたという。

 72歳だった1961年に定年を迎え、69年11月3日、秋の叙勲で勲六等単光旭日章を受けた。祝賀会の場。太郎と親交があり、横綱審議委員だったドイツ文学者の故・高橋義孝氏がこんな句を詠んだ。

 「しょうゆ樽(だる) 叩(たた)いてもらう 勲六等」

 宵越しの金を持たない太郎は、借金の形に商売道具の太鼓を質に入れたことがある。代わりに空のしょうゆ樽をたたいたのだが、その腕前ゆえ、しばらく周囲に気づかれなかったという。

 1971年3月、83歳で逝去。企業物価指数が今の2分の1ぐらいとされる当時、妻アヤ子さんに残したのは家と現金7千円だった、と伝わっている。両国・回向院にある太郎の墓には、「太鼓院技巧日貞居士」という戒名が刻まれている。(鈴木健輔)

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呼び出し

 相撲博物館の資料によると、「呼出し」の文字が初めて登場したのは江戸時代の寛政年間(1789~1801)に描かれたという錦絵だ。1902(明治35)年刊行の書物に、給料は1場所1円と「通券」10枚と書かれているという。

 通券は本場所を通じて観戦できるチケットに相当するもの。これを現金化して酒代にあてる人が多かったので、呼び出しは「のん太郎」とも呼ばれた。

 現在、呼び出しの階級は9段階に分かれ、トップは「立(たて)呼び出し」。初代は寛吉(1930~2008)で、その後、兼三、米吉、康夫、秀男、拓郎と続いてきた。2019年9月限りで拓郎が引退し、現在まで不在だ。

 服装はたっつけばかま。「呼び出しは粋でなきゃ」が口癖だった太郎は、いつも着物の襟をただし、背筋を伸ばしていたという。太郎の生涯は死後、俳優三木のり平が本人役を演じた芝居にもなった。「大相撲ダイジェスト」(テレビ朝日系、1959年~2003年)では長く、オープニングテーマ曲に太郎の太鼓の音が使われた。

 名呼び出しと呼ばれた人物は他にもいて、博物館資料では、美声で人気だった清松や小鉄(1891~1967)、三郎(1927~)の名を挙げ、明治期に活躍したやぐら太鼓の名手「金さん」は、その音を現在の両国かいわいから千葉・銚子までとどろかせた、と記している。