「進撃」エレンが虐殺で示した脱ナショナリズムへの道

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太田啓之
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 11年半の歳月をかけ、ついに完結した漫画「進撃の巨人」。異世界を舞台としつつも、生々しいリアリティーに満ちたこの作品は、私たちの暮らす現実世界とどのような接点を持っているのか。「鬼滅の刃(やいば)」を手がかりにナショナリズムの問題を考えた記者が、「進撃の巨人」の徹底的な読み込みを通じて、「脱ナショナリズム」の可能性を探った。

(この記事は「進撃の巨人」の結末部分の内容に触れています)

写真・図版
「進撃の巨人」の主人公エレン(中央)、幼なじみのアルミン(左)、ミカサ(右)の銅像。作者の諫山創さんの故郷、大分県日田市の大山ダムにある

 巨人がうろつき、人間を生きたまま食らう――。2010年、「進撃の巨人」の単行本が発売され、初めて作品世界に触れた時の衝撃は、今も心に刻まれている。

 第2巻、主人公エレンの幼なじみアルミンは、巨人との初の戦闘で仲間のほとんどを食われ、絶望の中でこう独白する。

 「もう駄目だ… 僕なんかが耐えられるわけがない… こんな地獄では…」

 「イヤ…違う… 地獄になったんじゃない 今まで勘違いをしていただけだ」

 「元からこの世界は地獄だ 強い者が弱い者を食らう 親切なくらい分かりやすい世界…」

 エレンを慕い続けるヒロイン・ミカサも、両親を悪漢に惨殺され、エレンまで殺されそうになった瞬間に気づく。

 「そうだ…この世界は…残酷なんだ」と。

 「世界は残酷だ」というのは、「進撃の巨人」の世界では決して疑われない「真実」であり「前提」だ。私たち読み手も、自分たちの生きるこの現実世界が、巨人など存在しなくても十分に残酷であることを知っている。経済的格差はすさまじく、温かい人間関係と十分な物資に恵まれた人はほんの一握り。そうした人たちでさえ、社会への対応を一つ間違ったり、何らかの不運に遭遇したり、時間が経過したりすれば、恵まれた境遇から簡単に引きずり下ろされる。反目や裏切り、憎悪は日常茶飯事だ。そして、どんなに足搔(あが)いても最終的には、「死」という絶対者が己の存在を抹消してしまう――。

 では、そんな「残酷な世界」に対して、私たちはどう立ち向かえばよいのか。

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