難民もあなたも私も「同じ人間」 元オリンピアンに聞く

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荒ちひろ
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 6月20日は「世界難民の日」。この夏に予定される東京五輪パラリンピックでは、前回大会に続き、史上2度目の難民選手団が結成される。この難民選手団の「先駆け」とも言えるマラソン選手グオル・マリアルさん(37)の半生を追ったドキュメンタリー映画「戦火のランナー」がシアター・イメージフォーラム(東京都渋谷区)などで公開されている。

 南スーダン難民だったマリアルさんは、2012年ロンドン五輪に個人資格で、16年リオデジャネイロ五輪には祖国代表で出場した。

「難民オリンピアン」となるまで

 マリアルさんは、半世紀におよぶ内戦が続いたスーダン南部(当時)に生まれ、8歳のころ、生きるために故郷を離れた。スーダン北部、エジプトを経て01年、16歳で難民として米国にわたった。高校で陸上の才能を見いだされ、11年には初マラソンでロンドン五輪の出場資格を獲得。だが、故郷の南スーダンは同年に独立したばかりで、国の五輪委員会がなかった。米国籍も取得前で、スーダン代表としてしか出場の道はないとされた。しかし、スーダンからの分離独立をめぐって多くの犠牲を払った南スーダン人として、その道は選べなかった。

 マリアルさんに五輪や難民への思いを、オンラインで聞いた。

 ――ロンドン五輪には独立参加という形で、五輪旗のもとで参加を果たしました。

 出場が決まったのは大会が始まる数日前のことで、ビザの手続きに時間がかかり、ロンドン入りしたのは開会式の3日後でした。選手村や競技場、そして大会最終日のマラソンで、世界中のトップアスリートたちと経験をともにしました。素晴らしかった。

 ただ、五輪にたどりつくまでに私は疲れ果てていた。マラソンの10キロ地点近くでは、棄権も頭をよぎりました。でもそのとき、南スーダンの旗を振って私を応援してくれる人々の姿が沿道に見えたのです。自分は南スーダンのために走っているのだ、最下位でもかまわないから、走りきらなければという責任を感じました。

 ――16年のリオデジャネイロ五輪では、南スーダンの初の代表として出場し、開会式で旗手を務めました。

 紛争を乗り越えた南スーダンの64の部族すべて、国民一人一人を代表して、国旗を掲げました。私にとっては、大統領よりも大きな責任を負っているように感じた。南スーダンの歴史的な瞬間の一部でした。南スーダン代表としてマラソンを完走できたことも、本当に素晴らしかった。一生忘れられません。

 ――マリアルさんにとってオリンピックとは?

 それぞれの国の人々を一つにするものであり、異なる国の人々を一つにし、世界をつなぐものだと思います。

 初めてオリンピックを見たのは、04年のアテネ大会。陸上部のコーチの家で、テレビでマラソンを見ました。まさか自分がめざすようになるとは思っていませんでした。それが翌年、陸上選手として奨学金を得て大学に入り、紙に「2012年オリンピック」と書いて壁に貼りました。当時はまだ南スーダンは独立していなかったのですが、なぜか、独立を果たし、自分が国を代表してオリンピックに出るんだと、直感的に思ったんです。

南スーダン選手へ、日本も支援

 ――東京大会をめざす南スーダンの陸上選手4人が19年秋から前橋市で長期合宿をしています。

 彼らが東京大会に出場できるとしたら、それは日本の人々がトレーニングの機会を作ってくれたからです。日本のみなさんにとても感謝しています。

 彼らを含めた若い選手たちは南スーダンの未来です。才能もある。ただ、チャンスが少ない。南スーダンには設備も組織もなく、近代的な練習プログラムもありません。首都ジュバでも、選手は土の上を走っています。指導者の教育や、組織マネジメントを学ぶ必要もあります。今回、前橋市が手を差し伸べてくれたように、世界の手を借りて、取り組まなくてはなりません。

 ――IOCは8日、東京五輪難民選手団のメンバー29人を発表しました。うち4人は、南スーダン出身の陸上選手です。

 IOCが難民選手に機会を与えていることは素晴らしいことですし、選手たちを誇りに思います。でも同時に、南スーダン出身の選手が今も難民選手団のメンバーに含まれていることは、とても不運なことでもあると思います。彼らは本来ならば、南スーダンの代表選手になるべきですが、現実はいまだに難民なのです。多くの国民がいまも難民状態にある。痛みを感じますし、解決すべき課題がたくさんあることを示していると思います。

記事後半では、いまは米国籍を得た「元難民」としての、マリアルさんの多様な社会への願いや故郷への思い、日本へのメッセージを紹介します。

 難民選手団という形ではあり…

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