第2回地響きと土煙、けいれんする少女 医師が見た不発弾事故
園児たちの歌声が響いていた。庭のブランコで遊ぶ子どももいる。
3月2日土曜日、晴れ。那覇市の幼稚園では、ひな祭りに合わせたお遊戯会がひらかれ、保護者も含め300人以上が集まっていた。
突然、爆発音と地響きがとどろいた。園舎は激しく揺れ、土煙が50メートルほどの高さまで上がった。園庭のジャングルジムや、ブランコはひしゃげていた。
連載「終わりなき沖縄戦」
太平洋戦争末期の1945年3月から約3カ月、沖縄では住民が生活する場所で米軍と日本軍が戦いました。死者は20万人余り。うち沖縄県民は12万人以上とみられます。あれから76年。いまなお地中には多くの戦没者の遺骨が眠り、暮らしの中で不発弾が見つかります。沖縄戦をどう継承していくかも課題になっています。
近くの住宅街で開院したばかりの大仲良一医師のもとには、3歳の女の子が運び込まれた。呼びかけても反応はない。全身をけいれんさせていた。
園のそばの下水道工事現場で起きた不発弾の爆発事故だった。
次女が1年前まで通っていた幼稚園の子だった。ブランコに乗っていて吹き飛ばされ、土砂で生き埋めになったと聞いた。娘のつもりで、できうる限りの手を尽くした。
幸い女の子は2日後には意識を取り戻し、一命を取り留めた。しかし、庭で遊んでいた別の3歳の女の子は亡くなった。ほかに工事現場の作業員ら3人が死亡。工事で使われていた7メートルほどの鉄骨は50メートル先まで飛ばされ、周辺住民ら34人が重軽傷を負った。
1974年、沖縄が太平洋戦争後の米軍統治を経て、本土に復帰して2年後のことだ。不発弾は、30年ほど地中に眠っていた旧日本軍のものだった。
米軍約20万トンを投下 事故絶えず
「戦後に生まれた幼い子までもが犠牲となった、忘れられない事故です」。10歳で終戦を迎え、いま86歳になった医師の大仲さんはそう話す。
沖縄県史によると、太平洋戦争中、米軍が日本本土に投下した爆弾は計約16万トン、これに対して沖縄戦は約20万トン。戦後、米軍統治下に置かれた沖縄で、米軍や住民によって約5500トンの不発弾が処理された一方、2千件近い不発弾の事故が発生し、700人以上が死亡している。
72年の本土復帰後は、自衛…