「人々の行動、現代と重なる」 「島原大変」の企画展

島原通信員・松下英爾
[PR]

 雲仙・普賢岳であった大火砕流の惨事から30年。同じ普賢岳を巡っては229年前、噴火に伴う眉山の崩壊、有明海の津波により約1万5千人が犠牲になる「島原大変肥後迷惑」もあった。この日本の火山災害史上、最大の惨事をテーマにした企画展「ドキュメント 島原大変」が、地元の長崎県島原市の島原図書館・肥前島原松平文庫で開かれている。当時の避難の基準や救援施策など、今にも通じる防災のヒントと出会える展示だ。29日まで。

 島原大変は、前年秋ごろからの群発地震や噴火を経て1792年5月21日午後8時過ぎに発生。地震とともに眉山が崩れ、土砂が城下町を押し潰して有明海になだれ込み、大津波を引き起こした。対岸の熊本・天草地方と合わせて1万5千人もの死者を出した。

 展示書物の「島原大變(たいへん)記(上)」には、相次ぐ噴火を受けて島原藩が、溶岩流が迫った際の避難の基準を設けていた記録がある。溶岩流による延焼が島原城山手側の浄林寺(現在の本光寺)まで及んだら藩主の子どもたちを避難させるよう取り決めていた。

 一方で眉山崩壊前には弁当や酒、肴(さかな)などを持って普賢岳の溶岩流の様子を見に行く見物人が多かったことが、豊富な挿絵を交えた「肥前温泉災記」からは見て取れる。

 展示物の中では圧巻の「嶋原大変大地図」は、幕府提出用に作られたもので横227センチ、縦180センチ。眉山崩壊による土砂流出の様子や、有明海にできた島々(九十九島)、湧水(ゆうすい)で突如出現した白土湖など当時の状況をよく描いている。

 「島原大變記(下)」には、島原城の本丸平櫓(やぐら)や塀の瓦の落下、二ノ丸や外曲輪(そとぐるわ)の石垣崩落などの被害状況が箇条書きで記された。

 「大変一件(地)」などの書物には、崩壊の1カ月後には島原藩が被災した寺に「御救米」を配給したこと、佐賀や筑前、肥後、唐津、大村など各藩から米やろうそくなどが大量に送られたといった救援策の広がりが記載されている。

 熊本には津波の到達点を示す津波境石、島原半島には犠牲者を弔う供養塔や回向堂が残っている。これらの写真の一部も展示中だ。

 展示会を企画した市教育委員会学芸員の吉岡慈文さん(32)は「島原大変で人々がとった行動は現代と重なる部分がある。当時の行動を知っていただくことで今後の防災や減災にもつなげてもらえたら」と話した。

 企画展は午前9時から午後6時(金曜日は午後8時まで)。28日は休館。無料。(島原通信員・松下英爾)