ウチナンチュとアイヌ結ぶ慰霊の塔 沖縄激戦地・糸満
沖縄戦の激戦地となった小高い丘に、その石碑は立っている。戦禍にたおれた人たちを慰霊する「南北之(の)塔」。その名の通り、ウチナンチュ(沖縄人)とともに、沖縄で戦死したアイヌ民族の兵士も弔う。戦後76年目の沖縄慰霊の日を23日に迎え、塔にゆかりのある人たちは、平和への願いを新たにしている。
太平洋戦争末期、本土防衛のための「捨て石」にされた沖縄では、激しい地上戦が繰り広げられた。中でも沖縄戦終焉(しゅうえん)の地となった本島最南端の糸満市では、兵士ばかりでなく、中南部から避難した住民も戦闘に巻き込まれ、多くの犠牲者が出た。
「当時の(地区の)人口九百人の中、生存者はわずかに三百人余りであった」。同市真栄平(まえひら)にある南北之塔の碑文は、沖縄戦の苛烈(かれつ)さを伝える。
塔を管理する真栄平自治会などによると、南北之塔が建てられたのは、1966(昭和41)年。沖縄復帰(1972年)より前のことだ。
終戦直後は、真栄平地区でも戦没者の遺骨が田畑や山野に散在したままになっていた。住民は身元不明の遺骨を拾い集め、数千人分を自然洞窟のガマに安置して納骨堂とした。その後、新たな納骨堂が整備された。
沖縄戦
太平洋戦争末期の1945年4月、米軍が沖縄本島中部に上陸。「鉄の暴風」とも形容される壮絶な物量攻撃を展開する。本島南部では追い詰められた軍民が混在し、集団自決などで多くの住民が命を落とした。同年6月23日、牛島満司令官らの自決で日本軍の組織的戦闘が終わったとされる。死者数は日米あわせて推計20万人を超える。北海道によると、道内出身の戦没者は1万85人で、沖縄を除く都道府県で最も多い。アイヌ民族も多数含まれていたとされる。
沖縄戦に詳しい元沖縄県平和祈念財団理事の大城藤六さん(90)は「アイヌ民族の犠牲者も三十数人分が納められていた」と話す。現在、遺骨はすべて、国立沖縄戦没者墓苑に移されている。
南北之塔の建立に協力したのが、沖縄戦を生き延びたアイヌ民族の元兵士、弟子(てし)豊治さん(故人)だった。北海道弟子屈町出身の弟子さんは、従軍生活を通じて地元の人たちと親しく付き合った。戦後、沖縄を再訪して塔の建立計画を知り、寄付金を贈るなど援助した。
「北も南もなく、戦争で命を失った人すべてを追悼しよう」。弟子さんの提案もあり、「南北」が碑銘につけられたという。塔の側面には、北海道出身の兵士が多かった第24師団(通称・山部隊)にちなみ、「キムンウタリ(山の同胞)」の文字が刻まれている。
「アイヌの人と沖縄の人を一…
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