兄の遺骨箱は空だった 亡き姉のセーラー服で通学した私

知る戦争

伊丹和弘
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 米軍の焼夷(しょうい)弾爆撃で1488人が犠牲になった長岡空襲から1日で76年。当時を知る人は少なくなり、記憶や思いの継承が難しくなりつつある。

 「兄も姉も生きたかったに違いない」。7月11日に開かれた「長岡空襲殉難者追慕の集い」で池田(旧姓・今井)ミヤ子さん(88)はそう語った。1945(昭和20)年8月は、今でいう小学6年生で12歳(以下の年齢は当時)。父忠作さん(57)、母ノリさん(48)、2人の姉と暮らしていた。

 兄の忠義さん(19)は空襲の前年、海軍に志願した。「国のために死ね、って言われていた時代。優しい兄でしたが、戦地に行くのが当然と思っていたのでしょう」

 通信兵となった兄は45年3月、最初の出動で乗っていた船が撃沈。帰らぬ人になった。「翌月、戦死を知らせる紙と遺骨箱が来ました。中には何も入っていませんでした」。兄が出征前に自分の爪と髪を切り、袋にしまって本棚の引き出しに入れたのを見ていた。いつか父母に告げようと思っていたが、なぜか言い出せなかった。

 長姉の寿美子さん(22)は東京都目黒区役所で働いていた。3月の東京大空襲で下宿先は被害を免れたが、都内は何度も大規模空襲にさらされ、兄を失った両親は何度も戻れと催促。5月に帰郷した。

 次姉の節子さん(16)は長岡高等女学校の4年。満州移民に応募したい、と言い出したが、両親が許さなかった。「それが良かった」と振り返る。次姉が泣きながら「一緒に行きたい」と言っていた親友は、戦後しばらくして帰国したが、身を守るために頭を丸坊主にし男の服を着ていたからだ。

 「上の姉とは年が離れていたので、それまでは一緒に遊んだこともなかった。空襲までの3カ月が姉妹3人の楽しい時間でした」

 早々と家族で床に就いていた8月1日の夜。サイレンが鳴り響いた。今井家は地区の班長。母はメガホンで「警戒、警報」と叫びながら町内を回った。やがて焼夷弾が降ってきて、自宅から火の手が上がった。

「何時間もかけて焼きました」

 庭の防空壕(ごう)は作りかけで子ども2人がぎりぎり入れる1畳程度の広さ。屋根もなかった。「私と下の姉が入ると、上の姉がトランクを投げ入れ、父が家から畳を2枚はがし、屋根代わりに上に乗せました。しばらくすると『節子、ミヤ子、出てらっしゃい』と姉の叫び声がしました」

 なんとか、畳をどかしてはい出ると、寿美子さんが倒れているのが見えた。母が必死に名前を呼び、手を引っ張ったが、ぴくりともしない。「焼夷弾の部品か何かが頭に当たって即死したのでしょう。父は燃える家の中からふとんを持ち出し、姉にかけると、4人で田んぼに逃げました」。あぜ道は人であふれていた。

 家は全焼。兄の遺髪と爪も焼失した。「木の焼け残りなどを集めて何時間もかけて姉を焼きました。落ちていたアルマイトの蒸し器に遺骨を入れ、私が避難先まで持っていきました」

 翌年、ミヤ子さんは進学。亡くなった姉のトランクに入っていたセーラー服で通った。

 3年生のとき、4年制の女学校が633制にあわせ、中学校と高校に分かれた。「あと1年で卒業のはずが、高校に行くとさらに3年。父の退職金で家を建て、進学する余裕はありませんでした」

 戦時中はずっと空腹だった。学校には弁当を持っていけず、昼休みに自宅に戻り、ほぼ水の薄いかゆをすすった。「うちの家族は比較的体格が良いのですが、私だけ小さい。コロナも大変ですが、飢えないし、身を守る方法もあるだけ、戦争よりまし。家が焼けなければ進学もできたでしょう」

 中学卒業後は銀行に務め、結婚。3人の子どもに恵まれた。「孫が4人、ひ孫が2人。命をつなげることができました。兄や姉もできたはずです。戦争さえなければ」

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 米軍の焼夷(しょうい)弾爆撃で1488人が犠牲になった長岡空襲から1日で76年。当時を知る人は少なくなり、記憶や思いの継承が難しくなりつつある。伊丹和弘

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