東海道は五十七次? 史実で知る「家康の街道政策」

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聞き手・鈴木裕
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 東海道は「53次」だけではなく「57次」でもあった。「東海道57次」の著書がある元JR東海専務で街道文化研究家の志田威さん(78)は、こう提唱し続けている。「53次」が国民の常識のようになったのは、あの有名な浮世絵のせいらしい。

 ――東海道は「57次」だったのですか?

 正しくは、江戸と京を結ぶ53次と、大坂までの57次の両方があった、ということです。

 江戸幕府を開いた徳川家康は、関ケ原合戦(1600年9月)の直後に、京から江戸までの交通と情報伝達に最適なルート選定を命じます。翌年1月には40ほどの宿駅を決めて、朱印状を出しました。これが東海道の宿駅伝馬制の始まりです。

 2代将軍秀忠は、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると、家康の意向を受けて東海道を大坂までの延伸に着手します。

 京と大津宿の間にあった髭茶…

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