第1回村に吹いた核の風、弟は16歳で死んだ カザフ実験場跡

有料記事核といのちを考える

小川裕介 岡田将平 編集委員・副島英樹
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 ロシアと中国に挟まれた中央アジアカザフスタン。首都ヌルスルタンに住むバルシャグル・トッカーリナさん(66)は7月13日、久しぶりに実家のある東部の旧セミパラチンスク(現セメイ)に帰った。

 弟の命日だった。家族写真を見つめ、祈りを捧げた。「レスリング選手のように体格が良く、サッカー好きの活発な子だった。なぜ核実験の犠牲にならなければいけなかったのか。怒りしかありません」

 かつて住んだ村の郊外には旧ソ連時代、核実験場があった。6歳だった1961年秋のある夕方、きょうだいらと庭で遊んでいると、雷のような地響きとともに、土混じりの爆風に襲われた。空は真っ赤に染まっていた。家に駆け込んだが、1歳下の弟ムフリスさんが見当たらない。庭で気絶して倒れていた。

 弟の右腕はまひし、二度と動くことはなかった。その後も失神を繰り返し、16歳だった73年、浴室で倒れたまま帰らぬ人となった。村では白血病を抱える子どもたちも多かった。

 核実験場の広さは約1万8500平方キロ。四国ほどの面積だ。旧ソ連は49~89年の40年間に、同国による核実験の約6割を占める約470回の核実験を地上や地下で繰り返した。150キロ圏内に放射性降下物が降り注ぎ、約130万人が影響を受けたとされる。このことはソ連崩壊まで伏せられていた。住民たちは「演習」と聞かされ、家の窓ガラスを新聞で覆うよう言われただけ。放射線による健康被害が知られるようになったのは、独立直前の80年代後半になってからだった。

 一家は学校長だった父の都合で、核実験場近くの村を転々として暮らした。両親は10人の子をもうけたが、母は3度の流産を経験。54年に生まれた兄は生後間もなく死去した。父は食道がんで、妹も7年ほど前に脳腫瘍(しゅよう)で亡くなった。

 99年、現地の新聞にある記事が載った。広島市の市民団体「ヒロシマ・セミパラチンスク・プロジェクト」が留学生を募っているという。

 バルシャグルさん夫妻は、当時16歳だった娘のアケルケさん(38)に勧めた。91年の旧ソ連崩壊直前、核実験場が閉鎖され、旧ソ連から引き継いだ大量の核兵器が放棄されるなど、カザフは非核政策を国是に掲げていた。「娘には、両都市の架け橋となって核被害を伝えてほしかったんです」

 アケルケさんは広島県廿日市(はつかいち)市の高校に留学。一橋大で故郷の被曝(ひばく)者の実態を現地調査して論文を書き、卒業後は在日カザフスタン大使館で働くなど文字どおり両都市をつないだ。

 バルシャグルさんは7年前、腫瘍が見つかった卵巣の摘出手術を受けた。今も心臓病や関節痛、高血圧に苦しむ。「ポリゴン(核実験場)がみんなの健康を奪った。弟や妹の苦しみを思うと、核兵器を絶対に許すことはできない。私も体験を子や孫に伝えていく。二度と同じような思いをさせないために」(小川裕介)

「悪魔の雄叫び」 カザフに残る悲しみの歌

 「ダー、ダー(そうそう)」。カザフスタンのセメイ市(旧セミパラチンスク)に住む小児科医ナイラ・チャイジュヌソワさん(69)は毎朝、広島市の女性とパソコンで会話するのが日課だ。新型コロナウイルスの状況や育てている花、見に行ったコンサート。4千キロを隔てた会話は弾み、長い時には1時間を超える。

米軍の広島、長崎への原爆投下から76年。1月に発効した核兵器禁止条約は、核実験などによる被害者も含めた世界のヒバクシャの救済・支援を促しています。連載1回目は、カザフスタンの現状と支援の今を追います。

 相手は小畠知恵子さん(69…

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