北島康介を育てた平井方式、原点は57年前の惨敗 教えは佐藤翔馬へ

木村健一 稲垣康介 松本龍三郎
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 いよいよ東京五輪が幕を開ける。戦争の影響で幻に終わった1940年大会、敗戦からの復興に力を与えた64年大会は、いまを生きる選手たちに大きな影響を与えている。

水泳、北島を生んだ平井方式の礎に

 日本競泳陣は1964年東京オリンピック(五輪)で銅メダル1個の惨敗に終わった。日本水泳連盟は再建へ向け、強化拠点の設立に動く。天理教の協力を得て、4年後、東京・駒込に東京スイミングセンター(SC)ができた。

 日本水連の前会長、青木剛は当時、東京SCのコーチだった。「1年を通して練習できるプールが必要だった。『オリンピックで旗をあげる選手を』、と」

 地元の子どもたちを集め、競技の裾野を広げた。指導は勘や経験に頼らず、練習のデータを記録し統計的な手法も採り入れた。ヘッドコーチの名から「小柳方式」と呼ばれた。

 80年以降、次々と五輪選手を送り出し、平泳ぎの北島康介が2004年アテネ五輪で二つの金メダルを獲得し、08年北京五輪も2冠。指導した平井伯昌は「『これはこうだ』とは決めつけない。守るべき伝統と柔軟性がある」。平井は東京五輪にも日本代表監督として臨む。

 青木は「小柳方式が基礎となり、選手に応じて指導する平井方式へ改良された」と見る。

 男子平泳ぎで東京五輪に挑む佐藤翔馬(慶大)も小学3年から東京SCでもまれてきた。今年4月の日本選手権200メートル平泳ぎで日本記録。「自分が成長できたのはこのプールのおかげ。康介さんは金メダルを取っている。僕も取りたい」。あの惨敗は、確かな糧になっている。木村健一

ハンドボール、三度目の正直

 日本のハンドボール界にとって、今回の東京五輪は「三度目の正直」となる。

 日本協会が発足したのは1938年。40年の東京五輪を見据えてだった。しかし、戦局の悪化で大会は返上の憂き目にあう。

 続く悲劇は64年東京五輪だった。開催が決まった59年5月には、国際オリンピック委員会(IOC)の五輪憲章にある全21競技の実施が約束された。そのなかには、36年ベルリン五輪を最後に実施競技から外れていたハンドボールも含まれていた。

 ところが、61年6月のIOC総会で除外された。日本の要望で柔道が加わり22競技になると、大会の「肥大化」が取り沙汰され、国際的に普及が遅れていたハンドボールが削減対象になった。新たに採用されたバレーボールは「東洋の魔女」が金メダルを獲得し、その明暗は際立つ。

 長年、日本ハンドボール協会幹部を務め、日本オリンピック委員会(JOC)専務理事も歴任した市原則之氏は「なんで五輪にも出場できない競技出身者がJOC幹部なんだ、と言われて肩身が狭かった」と述懐し、「そういった意味ではやっと迎えられる東京五輪なんです」と感慨深げだ。

 幻となった最初の東京五輪から81年。ついに日本でハンドボールが五輪競技として行われる。男子代表の主将、土井レミイ杏利は東京開催が決まったときに話していた。「幼いころから夢だった。昔は五輪に出られることはないのかなと思っていた中で、希望が生まれた」稲垣康介

重量挙げ、伯父と姪っ子の物語

 1964年の東京五輪で、日本勢の金メダル第1号となったのは重量挙げ男子フェザー級の三宅義信(81)だった。あれから57年。義信を伯父に持つ三宅宏実(35)が、女子49キロ級で5大会連続となる五輪に挑もうとしている。

 宏実もロンドン五輪で日本女子初の銀メダル、リオデジャネイロ五輪でも銅メダルに輝いた。重量挙げの女子日本勢を長年引っ張ってきた。ただ、近年は肉体の衰えに直面し、「良い時に散った方が良かったのかな……」と自身の引き際も頭によぎったという。

 それでも現役生活を続けてきたのは、伯父の存在があったから。宏実は言う。「オリンピックが東京じゃなければ、とっくに引退していた。伯父がメダルを取って、私自身の東京五輪につながっている。『私も東京でメダルを取りたい』。その気持ちがあったから、ここまで走ってこられた」

 もがき苦しむ姪っ子の姿を見てきた義信は「(五輪に)5回出るだけで立派。勝敗はあまり考えなくてもいい」と思いやる。

 「悔いの無いように」と宏実。三宅家の物語は、フィナーレを迎えようとしている。=敬称略(松本龍三郎)