オヤジのように愚直に前へ レスリング屋比久、夢背負って大舞台へ

レスリング

金子智彦
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 生後100日。

 お祝い写真には、日の丸をあしらったシングレット(試合着)を着た赤ちゃんが写っている。

 男の子は、レスリング男子グレコローマンスタイル77キロ級の東京オリンピック(五輪)代表の屋比久翔平(26、ALSOK)。

 まるで、五輪代表のレスラーになることは必然だったかのようだ。

 30年前、最終決戦での大けがで五輪の希望が砕けた父の思いも背負う。沖縄レスリング界初のレスラーとして、いざ大舞台へ。

 屋比久の父・保さん(58)は全日本選手権を2度制覇し、1989年の世界選手権の日本代表だ。教員を休職し、92年バルセロナ五輪をめざしていた。

 しかし、迎えた最終選考会。がぶり返しを食らった際、左ひざの前十字靱帯(じんたい)、半月板などを痛める3カ月の大けが。30歳での再起は難しかった。

 保さんは「男の子が生まれたら夢を託す」と決めていた。やり投げで高校日本新記録(当時)を出した妻直美さん(52=旧姓・渡久山)も協力してくれた。

 屋比久は3歳から、保さんが監督を務めていた沖縄・北部農林高レスリング部のマットで遊んだ。小4から本格的にレスリングを始めたが、「全然、素質はなかった。ぼてぼてっとした体つきでね」と保さん。

 その頃、学校であった二分の一成人式。屋比久は「僕の夢は、レスリングで日本一になってオリンピックに行くことです。なぜなら、お父さんがオリンピックに行けなかったからです」と宣言した。

 でも、体をもじもじさせながら、最後は泣いたという。保さんは「緊張したり悔しかったりすると、いつも泣きべそをかいていた」。

 屋比久は中・高校時代を過ごした沖縄での日々を「ひたすらがむしゃらに、全力でやっていた。ビデオをみて色々研究もした」という。高2の終わりごろからようやく頭角を現し、グレコの名門・日体大へ進んだ。

 1年生ながら力を見込まれ、全日本レベルの猛者ぞろいの先輩にまじり、練習した。太刀打ちできず、保さんの元には知人から「おまえの息子、いつも泣いてるぞ」の声が届いた。本人は「物心ついたときから、五輪に出たい気持ちを持っていた。それはずっと変わらなかった」と猛練習にも弱音は一切吐かなかった。

 本来だったら東京五輪が行われていた昨年8月5日、屋比久は父になった。ハーフバースデーの記念撮影のとき、シングレットを着せた長男・紫琉(しりゅう)くんを、日本代表のシングレット姿で抱いた。

 そして、今年4月、屋比久は五輪アジア予選(カザフスタン)で2位となり、五輪切符をつかんだ。「オヤジの夢を一つ果たせたんじゃないかな」

 屋比久の売りは、父譲りの強固な下半身。もも周りは62センチある。

 前回リオデジャネイロ五輪の予選のときは、「勢いだけでやっていた」。それから5年。相手への圧力のかけ方に磨きをかけ、予選を突破。泥臭く、愚直に前に出る保さんそっくりのスタイルで五輪に臨む。

 無観客で、五輪を誰よりも願っていた保さんら家族は会場で応援できない。しかし、マットに向かう屋比久には、セコンドや観客席から響いていた保さんのいつもの声が聞こえるはずだ。

 「前に出ろ」(金子智彦)