息子の夢「全力で応援」 青木勇貴斗とパークへ通い続けた父

スケートボード

荻原千明
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 息子が初めてスケートボードに触れたのは、5歳の時だった。父子2人暮らし。それ以来、2人でパークに通い続けた。あれから12年。息子は東京オリンピック(五輪)の日本代表になった。

 2009年5月のある日曜日。父の青木信博さん(49)は息子の勇貴斗(ゆきと)さんと、リビングでDVDを見ていた。地元・静岡のラッパーのライブやダンスが収められた作品。ダンサーだった信博さんも出ていた。

 スケートボードのシーンが流れたときだった。「これ、やりたい」。勇貴斗さんが言った。すぐに2人でおもちゃ屋に向かい、スケートボードを買った。その足で自宅近くのパークに向かった。お兄ちゃんたちに話しかけてもらい、楽しそうだった。翌日、ご飯を食べても、風呂に入っても「また行きたい」という。寝る前に近場のパークへ滑りに行く日々が始まった。

 おもちゃではデッキ(板)をはじいて跳ぶ技ができず、すぐに本物のスケボーを買うことになった。その年の七夕の短冊には、「プロスケーターになりたい」。せめて週に一日は休ませたいとディズニー映画を見せていたが、いつの間にかスケボーのDVD鑑賞日になっていた。

 パークで体の使い方を年上のスケーターに教わる息子の傍らで、一緒に耳を傾けた。1人のときでもアドバイスできるように。毎週末、大会会場や大規模なパークに連れて行くため、車を走らせた。

 息子を応援したいわけがある。離婚し、末っ子の勇貴斗さんを引き取り、父子2人の生活が始まったのは勇貴斗さんが3歳の頃。生計を立てる仕事とは別にダンサーとしてオファーを受け、夜に踊りに行くこともあった。クラブの控室に幼い息子を寝かせ、ショーが終わるとだっこして家に帰った。

 「自分が自分であるために、ショーは断れなかった。申し訳ないと思っていて。いつか勇貴斗に『自分はこれをやりたい』というものが見つかったら、そのときは全力で応援するつもりでいた」

 小学5年の春休み、初めて米ロサンゼルスに連れて行った。自身も20代の頃、ダンサーとして挑戦した地。「世界を見てほしい」「憧れるのでなく、相手に認められる存在を目指せ」との思いだった。その年、勇貴斗さんは大会で成績を残し、小学6年でプロ資格を獲得した。

 練習スタイルは「黙々」という言葉が似合う。技のコツをつかめそうだと思えば、パークの閉園時間になっても、怒られるまでやり続けた。

 17歳になり勇貴斗さんの身長は、170センチの父を優に越えた。

 この日出場した男子ストリート予選は17位。初めての五輪が終わった。試合後の第一声は「自分らしい滑りができて、楽しく滑れたのでよかったです」だった。「自分の実力が単純に足りなかった。次のパリで金メダルを目指したいと思います」(荻原千明)