戦争に翻弄された農民の足跡、南アルプス市で展示

佐藤純
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 太平洋戦争中、旧日本軍の飛行場建設に相次いで携わり、米軍の攻撃で命を落としかけた農民の男性がいた。この男性が当時記した従軍日誌などが見つかり、遺族が地元の南アルプス市に寄贈した。同市ふるさと文化伝承館で初公開されている品々から、戦争に翻弄(ほんろう)された人々の足跡が浮かび上がる。

 旧山梨県鏡中条村(現在の南アルプス市)出身の志村太郎さん。伝承館によると、1916(大正5)年生まれの志村さんは、農林学校を出て、家族が営む養蚕に加わったが、34(昭和9)年に始まった民間の飛行場建設のため、農地は人手に渡った。生計が成り立たなくなった志村さんは、日中戦争が始まって2年目の38年9月に軍属に。「雇員ヲ命ス 月給四十五円ヲ給ス」という陸軍航空本部名の書面が残る。

 41年12月に太平洋戦争が始まった。旧防衛庁の「戦史叢書(そうしょ)」によると、日本軍は42年6月に北太平洋アリューシャン列島のアッツ、キスカ両島を占領した。米軍の反撃で、キスカ島の部隊は43年5月以降に撤退し、アッツ島守備隊は「玉砕」した。太平洋戦争中、太平洋の島々での戦いで最初の玉砕だったとされる。

 志村さんの従軍日誌は42年11月3日に始まる。小さな手帳の冒頭に、手書きで「キスカ島飛行場設定要員トシテ」とある。43年2月まで、島での日々が克明に記されている。

 島に入り、厳しい寒さの中で、飛行場を造る場所を選び、準備を急いだ。「不発弾が幾個も有る。破片は一面に散っている。砲撃の弾コンと聞き驚いた。本日の爆撃は6時30分、九機編隊だ」。日本軍の占領下とはいえ、緊迫していた。

 戦史叢書によれば、着工は12月1日。志村さんはその日、「本日より飛行場着手する」と書いた。

 「本日の爆撃は猛烈だった」「上等兵戦死す」。そんな張り詰めた日々の中で、作業が休みの日には、「甲府の澤田屋を思い出したり、澤田屋のケーキの味を思い出す」と望郷の念をにじませた。

 キスカ島に送り込まれるはずだった徴用工500人が南方に振り向けられることになり、「残念だ」とあせりの言葉も見える。

 伝承館によると、志村さんは43年6月に島を離れ、日本に戻った。「爆撃され首まで埋まった。潜水艦で千島に逃げてきたが、生きた心地がしなかった」と家族に話したという。

 45年6月、志村さんは、故郷で「ロタコ」と呼ばれた陸軍の飛行場建設に加わる。伝承館によると、このころの志村さんの資料はないが、家族に「穴を掘っている」と告げていたという。地域の人たちが1日に3千人動員された。

 完成前に日本は負けた。戦後、飛行場の建設資材を使い、地元の人たちが川に橋をかけようとしている様子が、志村さんが残した写真に映っている。志村さんは市内で暮らし、68歳で亡くなった。

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 伝承館では、志村さんの55点を含む約100点の資料が展示されている。

 市内の小学校に、国民の戦意高揚を図る「国策紙芝居」が6点残っていた。43年11月の「玉砕軍神部隊」は、アッツ島の玉砕を伝え、「アッツ魂に続く者はだれだ」と呼びかける。「あかるい門出」は、中国戦線で負傷し両腕をなくした軍人が、子どもたちの慰問で励まされ、再び国のためになろうと誓う内容だ。

 ロタコ関連では、工事に従事した朝鮮人が、日本の敗戦で朝鮮半島の植民地支配が終わったことに伴い、帰国の旅費の足しにしようと農家に買い取ってもらったツルハシなどの道具や、朝鮮人の名前が刻まれた食器がある。

 会場のスクリーンに、明治時代以降の市内出身の軍人が亡くなった場所を示す年ごとの世界地図が次々と映し出される。中国や太平洋の広い地域で、戦争末期に急激に多くの人たちが命を落としたことがわかる。

 中山誠二館長は「展示を通して南アルプスの人々と戦争とのつながりがつかめる。平和を考える機会にしてほしい」と話す。

 テーマ展示「戦争と にしごおりの人々」は9月29日まで(原則木曜休館)。入館無料。問い合わせは伝承館(055・282・7408)へ。(佐藤純)