「欺瞞に満ちた東京五輪」 ファンだからこそ考える参加選手の責任

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星野智幸さん(作家)

 24日に行われたオリンピック(五輪)の女子サッカー、日本―イギリス戦のキックオフ直前、私はかたずをのんで画面を見守っていた。イギリスの選手たちが片ひざをつくのと同時に、日本の選手たちも片ひざをついた。ちょっと涙ぐみそうになった。

 日本のスポーツで、選手が自分の意思で人種差別に抗議を表した瞬間だった。日本の選手たちはそれをとても自然な行動として示した。とうとう、日本の女子サッカーもここまで来たんだな、という感慨があった。その後の、両チームの魂のこもった試合展開まで含めて、特別なものを見たという気持ちの高ぶりがあった。

 なぜ、この行為が重要かというと、人種差別をスルーしたら、サッカーの現場が差別の応酬になって、サッカーが成り立たなくなるからだ。自分たちが人生を賭けているサッカーを守るためには、人種差別への反対を人任せにするのではなく、選手が個人として意思表示することが鍵となる。そのことで、差別の対象になる選手もそうでない選手も、互いが味方なのだと思えるから。選手たち個人の信頼を失わないためにも大切なのだ。サッカーに政治を持ち込んでいるのではなく、サッカーを暴力から守る行為なのである。

 常に、男子スポーツの標準から排除されてきた女子スポーツには、競技者個々人が信頼しあって自分たちを守っていく、という性格がある。特に女子サッカーはアメリカが中心となって、自分たちで決める、という意思をかなり自覚的に実践して、女子スポーツの文化をリードしてきた。

 だから私は、女子サッカーこそが、今噴き出しているスポーツの負の側面を変えて、新しい力を体現してくれると信じており、長年なでしこリーグの応援を続けている。

 それなのに、片ひざをつく場面を目にして感慨を覚えながら、一方で、その感慨が虚無に吸い込まれていくのも感じる。感銘は、たちまちのうちに後ろめたさと絶望に取って代わられる。

 差別に対して意思表示するそ…

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