第7回怒るゲバラ、モンローはため息 広島・長崎に刻んだ思い
白い手袋姿の学芸員が、銀色の箱をゆっくりと開けると、真っ白な薄紙に包まれた革張りの冊子が収まっていた。30センチ四方ほどの大きさで、厚さは10センチほど。開くと、各国の大統領や首相らのメッセージが記されている。
約40年前から受け継がれるうちに、こう呼ばれるようになった。「国家元首級の芳名録」
平和記念資料館(広島市中区)の収蔵庫で、数々の被爆資料とともに保管されている。
「広島を考えることは核戦争を拒否すること」
1枚目にはラテン語でこう記されていた。
「『私の思いは平和の思いであって、苦痛の思いではない』と神は言われる」
1981年2月25日、当時の教皇ヨハネ・パウロ2世がしたためたメッセージだ。
この日、広島は雪がちらついていた。教皇は平和記念公園に集まった市民やカトリック教徒ら約2万5千人の観衆を前に、原爆死没者慰霊碑に花を手向けた。そして静かに地面にひざまずき、約40秒間、目を閉じて黙禱(もくとう)を捧げた。
市民らに向きなおると、片言の日本語でゆっくりと語り始めた。
「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です」
「広島を考えることは核戦争を拒否することであり、平和に対しての責任を取ることです」
この約30分の「平和アピール」を、日、英、仏、スペイン、ポルトガル、ポーランド、中国、ドイツ、ロシアの9カ国語で語った。
平和アピールは米国とソ連の緊迫していた関係に警鐘を鳴らしたとされる。この年の1月にレーガン大統領が就任。ソ連を「悪の帝国」と呼び、米ソ関係が悪化した。
「人類は紛争や対立を平和的手段で解決するのにふさわしい存在。険しく困難だが、平和への道を歩もうではないか」。広島からそう呼びかけた。
国家元首級の芳名録(1冊)以外にも、俳優や映画監督、音楽家、スポーツ選手ら世界各地の第一線で活躍する人々が書き込んだ芳名録も70冊ある。メッセージを残した人数は、計約2200人に上る。
資料館の学芸員、落葉裕信さん(44)は芳名録の意義についてこう説明する。「影響力のある人々が原爆の悲惨な被害を目の当たりにしてつづった直筆のメッセージには、平和への思いや原爆の悲惨さに対する考えがたくさん詰まっていて貴重です」
革命家・ロックスターも
米国の俳優マリリン・モンロー氏は1954年2月11日、新婚旅行で元大リーガーのジョー・ディマジオ氏と広島を訪れた。当時27歳。原爆ドームなどを回った。地元紙などによると、現在の平和記念資料館で被爆資料に見入り、ため息を連発したという。
キューバ革命を主導した革命家チェ・ゲバラ氏は59年7月、当初の予定になかった広島訪問を強く希望し、原爆死没者慰霊碑に献花。資料館や被爆者の治療にあたる病院を訪れた。「君たちはアメリカにこんなひどい目に遭わされて、怒らないのか」と言い残し、自身の手記には「原爆の悲劇から立ち上がれ 日本よ」と記した。いずれの時期もまだ芳名録はなかった。
チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世は95年3月30日、芳名録に「言葉に表せない、想像を絶する破壊力を持つ兵器をこの地上から廃絶することは、我々人間全ての務めです。みなさん、どうか全力でこの務めにあたってください」。ベトナム在住の枯れ葉剤の被害者グエン・ドク氏は2016年10月、「戦後に残された過去の史跡に真に心を動かされ、驚かされました。広島市民の皆様が、未来の平和を目指すため、過去の苦痛を乗り越えますように」などと記した。
広島にはこのほか、マザー・テレサ(84年)やフランシスコ教皇(2019年)、英ロックバンド「レッド・ツェッペリン」のジミー・ペイジ氏(15年)らも訪れた。同氏は、1971年にも訪問し、慈善コンサートの全収益約700万円を被爆者援護資金として広島市に寄付した。
長崎市の長崎原爆資料館にも、前身の長崎国際文化会館のものも含めて、1977年以降の芳名録が残されている。資料館によると「冊数や記した人数は定かではない」というが著名な顔ぶれが並ぶ。
ジョン・レノン氏の妻で前衛芸術家のオノ・ヨーコ氏は2011年8月、「イマジン・ピース(平和を想像しよう)」の一言を残した。
ケネディ元米大統領の長女で元駐日大使のキャロライン・ケネディ氏は13年12月、「ケネディ大統領が一番誇りにしていた功績は、部分的核実験禁止条約です。長きにわたり、より平和な世界を構築するために取り組まれている長崎市を訪問できたことを大変光栄に思います。今後、貴市の取り組みの一翼を担いたいと思います」などと記した。(比嘉太一、山崎毅朗、比嘉展玖)
被爆国の覚悟 問われる年
76年前、広島と長崎で人類に初めて核兵器が使われた。被爆地に世界から人々が集うのは、平和を願う「原点」だからだろう。各界のリーダーたちが芳名録に記したのは原点を訪れた「証し」であり、核兵器廃絶に向けた自らの決意でもあった。
今この瞬間も、地球を何度も滅ぼせる大量の核兵器が存在する。核弾頭数は冷戦期の1986年の約7万発をピークに、約1万3千発まで減った。だが、米ロの核軍縮条約の先細りに加え、中国の軍拡や北朝鮮の動向も懸念材料だ。核保有国に核軍縮に向けた交渉をするよう義務付けている核不拡散条約(NPT)も停滞している。
そんな中、核兵器禁止条約が今年1月に発効した。核保有国や日本など「核の傘」の下にある国々は参加していないが、人類が核兵器を違法なものと否定する画期的な内容だ。
冷戦期に核兵器削減に導いた考え方も再び注目されている。当時のレーガン大統領とゴルバチョフ書記長が85年の首脳会談で共同声明に記した「核戦争に勝者はなく、決してその戦いはしてはならない」との合意だ。同じ表現が今年6月、バイデン・プーチン両大統領による米ロ首脳会談の共同声明にも盛り込まれた。
危機と好機が共存する時代に、被爆国日本の核廃絶に向けた覚悟が問われる。芳名録をたどる旅は、そのことを改めて気づかせてくれる。(編集委員・副島英樹)
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