18年ぶりに頂点の日大東北 快挙を支えた3人の裏方

福地慶太郎
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 18年ぶりに、夏の甲子園への切符をつかんだ日大東北の快挙の裏には、3人の裏方の存在があった。直接プレーは出来なくても、相手チームの分析や冷静な判断力、熱血指導でチームを勝利に導く。

 7月25日の福島大会決勝。日大東北が1点を勝ち越した直後の八回表、二塁手の主将・松川侑矢(3年)のプレーが、ベンチと応援席を大いに沸かせた。

 2死から光南・4番の左打者が放った鋭い打球は、一、二塁間へ飛んだ。右翼へ抜けると思われたが、松川は滑り込みながら、グラブで打球をキャッチ。くるっと回って振り返り、一塁に送球してアウトにした。宗像忠典監督(59)は「松川のあんなプレーは見たことがない」と絶賛し、チームに勢いをもたらした。

 この好守備の影の立役者が、3年生の穂苅(ほかり)一真(かずま)だ。福島大会では4回戦から決勝まで、計4チームの打者の打球がよく飛ぶ方向や投手の配球、牽制(けんせい)の癖を試合の動画を見たり、記録を調べたりして分析した。光南の4番は右方向に引っ張る――。試合前に穂苅の分析を知らされていた松川は、あらかじめ普段より一塁寄りに守っていた。

 埼玉県本庄市出身の穂苅は、中学の時のチームの監督の勧めもあり、日大東北に進んだ。50メートル6・3秒の俊足をいかそうと、相手投手の牽制の癖などを熱心に調べていた。夏の大会はベンチを外れたが、その姿を見ていたコーチが、穂苅に対戦相手の分析を頼んだ。

 穂苅は「正直、今でも選手としてやりたい気持ちはある。でも、チームの力になれるように、できることをやっていきたい」。3日の抽選会で対戦相手が決まれば、また相手チームの分析を始めるつもりだ。

 3年生の関根雅人は福島大会では背番号20で、三塁コーチを務めた。二、三塁走者を本塁へ走らせるかどうかの判断を下す。もともと捕手だったが、昨秋に左ひざを痛めて手術し、練習できなくなり、監督の打診で学生コーチになった。監督が指示する練習メニューと狙いを選手に伝え、春からは試合で三塁コーチを任された。

 今大会は試合前のノックで相手の外野手の肩の強さや守備の安定感を見極め、試合中は守備位置を確認。仲間の走者の足の速さを踏まえ、どこまで走らせるかを判断した。

 準々決勝の東日大昌平戦では、七回2死二塁から中前安打で二塁走者の久納海(3年)が生還し、5点目を挙げた。久納は「打球がライナー性だったのでホームへ行くか迷ったが、関根は迷わず回していたので思い切って行った」と振り返る。

 18年前に日大東北が出場した夏の甲子園で2年生ながら4番を打った吉田翔コーチ(34)も、選手たちを支えてきた一人だ。

 宗像監督のもとで戦った2003年の福島大会は、チームトップの6打点を挙げ、聖光学院との決勝でも先制点を挙げるスクイズを決めた。ただ、甲子園の初戦は今治西(愛媛)の好投手を前に無安打。チームは3安打完封で敗れ、「またここに戻ってきたい」と思った。

 しかし、翌年の福島大会は準々決勝で敗退。主将として開会式で返還した優勝旗を、再び手にすることはなかった。自身は大学に進んだが、後輩が甲子園の切符をつかめない年が続き、自ら母校で指導したいという思いを強め、11年前にコーチとして帰ってきた。

 普段は選手を厳しく指導しつつ、選手が悩み苦しんでいるときは優しく声をかけて導いてきた。主将の松川は「吉田さんには怒られても愛があると分かる。僕の野球人生で、一番良い指導者に出会えた」と語る。

 「甲子園は、なかなか平常心ではいられない。だからこそ、練習から一球一球、集中して気持ちを入れて欲しい」。吉田コーチはいま、自分の経験を大舞台に立つ後輩に伝え続けている。福地慶太郎