「のらくろ」描かれたガラス塊見つかる 前橋空襲の遺物

空襲1945

柳沼広幸
[PR]

 【群馬】市街地が焼け野原になった前橋空襲から8月5日で76年。前橋市千代田町3丁目の工事現場から空襲の惨事を伝える溶けたガラスの塊や子どもが遊びに使ったビー玉などが新たに見つかった。空襲の体験者で語り部などをしてきた元県職員の原田恒弘さん(83)らが発見した。「空襲で日常が一瞬にして崩れたことが伝わってくる」。遺物は市内の企画展で公開する。

 見つかったのは、注ぎ口が溶けて曲がったガラス瓶、緑色の透明なものと白く濁ったようなビー玉が数個。溶けて重なったガラスの塊にはさびた釘も付着している。「石けり」遊びに使った緑色のガラス(直径4~5センチ、厚さ0・5センチ)には、戦時中の人気漫画「のらくろ」が描かれ、遺物が戦時中のものだと分かるという。

 原田さんが今年3月、散歩中に区画整理の工事現場を通りかかり、光るものを見つけた。周辺も調べると、半径4~5メートルの範囲から今回の遺物が出土した。大学で考古学を学び、県職員として文化財の調査に携わった経験から工事現場があると「ついのぞいてしまう」。ガラクタとして捨てられかねないものだが、原田さんには特別なものだ。

 76年前の8月5日、国民学校2年生の7歳だった。夜10時ごろ空襲警報が鳴り、広瀬川の比刀根橋わきの防空壕(ごう)に逃げ込んだ。ドカーン、ドカーン。米軍による爆撃の音が近づいてくる。防空壕は20~30人いたが「ここにいたら死んじまう」と出ていく人もいた。

 焼夷(しょうい)弾が降り注ぎ、家々を焼き尽くし、街中が炎に包まれた。防空壕はつぶれなかったが熱風が入り込み、中で多くの人が「生きながらにして死んでいった」。防空壕で助かったのは数人。原田さんは女性が守ってくれたという。

 同空襲では535人が犠牲になり、市街地の8割が焼け野原になったという。

 ビー玉や石けりで遊んでいたのは、小学校低学年ぐらいの子どもたち。当時の原田さんと同じ年頃だ。「ビー玉や石けりに夢中だった子どもやその家族はどうなったのだろう。この辺りは激しい爆撃に遭った。生き延びることができただろうか」。76年を経て出てきた昭和の遺物が、当時の記憶を呼び覚ます。

 原田さんは、前橋空襲を伝える資料などを展示してきた「あたご歴史資料館」(昨年3月に閉館)の学芸員を務め、語り部としても活動してきた。「体験者が語り伝えるのは限界にきている。次の世代、若い人たちが考え、人間の命を尊ぶ行動をとってほしい」

 76年ぶりに見つかった遺物は、6~8日に同市三河町1丁目の前橋市芸術文化れんが蔵で開かれる「地域から戦争を考える」と題した企画展で展示する。入場無料。(柳沼広幸)

空襲1945

空襲1945

あのとき、日本中が戦場だった。東京・大阪・福岡など各地の写真300枚や映像、データマップで惨禍を伝えます。[記事一覧へ]