忍先輩がいたから 五輪直前、焦る文田健一郎に贈られたアドバイス

レスリング

金子智彦
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 「お前、焦ってんな」

 心の中を見透かされていた。

 東京オリンピック(五輪)本番が間近に迫った7月、レスリング男子グレコローマンスタイル60キロ級の文田健一郎は調子を崩していた。

 6月上旬、新型コロナワクチン接種に伴う副反応が出て、貴重な実戦機会だったポーランド遠征を回避した。

 調整が狂った。心理的に追い込まれ、練習で無理な体勢から強引にポイントを取りにいくようになっていた。

 そして、全部カウンターで返された。

 「無理して攻めてる。お前の形じゃなくなってるよ」

 声の主は太田忍。2016年リオデジャネイロ五輪銀メダリストだった。

 文田との東京五輪代表争いに敗れ、今は総合格闘家に転身したが、久々のスパーリングでも「忍者レスラー」と称された動きは健在だった。

 文田はこう断言する。「忍先輩がいなかったら今の僕はいない」。日体大の2年先輩とずっと一緒に競い合ってきた。

 リオ五輪では練習パートナーを務めた。世界の猛者に臆することなく、メダル獲得へ鬼気迫る執念をみせる太田を間近で見た。

 「今はかなわない。でも、いつかは」

 その後、文田は17年世界選手権で日本のグレコ勢としては34年ぶりの優勝を果たした。「次は俺の番だ」。慢心がわずかに生まれた。そんな自分の鼻をへし折ったのも太田だった。

 その年の暮れの全日本選手権で負けた。

 「負けることが悔しいと一番感じられた試合。あの試合があってよかった」と文田。

 漠然と練習をこなすだけではなく、勝つために必要なことは何か。真剣に考えるようになった。

 個人トレーナーをつけ、背中の筋肉を重点的に鍛えるようになった。重りをつけながら懸垂をした。重りは20キロだったものが今は55キロに。相手を引き込む力が増えたことで、得意の投げ技がかかるようになった。

 太田は「ぶっつぶしてやる」など挑発的な言葉を文田にかける一方で、対戦相手の動きをまねて一緒に対策を練ってくれた。切磋琢磨(せっさたくま)した時間が長い分、太田は大舞台を直前にした文田の異変に気付き、アドバイスをしてくれたのだった。

 迎えた東京五輪。会場には、試合前の演出の一環でマット上でパフォーマンスを披露した太田の姿があった。

 「頑張れよ」。冗長な言葉はいらない。簡潔な言葉に込められた太田の思いを受け止めた文田。だが、必勝を期して臨んだ決勝戦で屈した。

 くしくも、負けた相手は人は違えど太田がリオ五輪で敗れたのと同じキューバ国籍の選手だった。

 「忍先輩の分も金メダルをとって喜んでもらいたかったのに、超えられなかったですね。ふがいない」

 太田はこれまでも、文田の闘争心をたき付ける言葉を放ってきた。今回はこんな言葉で文田の尻をたたくかもしれない。

 「何やってんだよ、健一郎。俺が代わりにパリ五輪で金取ってやろうか」

 2人の歩みは続く。(金子智彦)