山手線乗車中に軍機が… コロナ禍で思い出した封印体験

加藤真太郎
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 コロナ禍で不安な今だからこそ、語り継ぎたい――。埼玉県越谷市の宮坂壽(とし)子さん(91)が自伝「名残の玉章(たまずさ)」を自費出版し、これまで封印してきた自身の戦争体験をつづった。「平穏な日常は当たり前でない。平和について考えるきっかけになれば」と話す。

 1930(昭和5)年、長野県松本市生まれ。その後、新潟を経て、一家で東京・麴町に移り住んだ。

 第五高等女学校2年の時、教室は一変。学徒動員で、陸軍戦闘機の配電盤を組み立てる作業に明け暮れた。重たい材料をリュックに詰め込み、10人ほどで川崎から新宿まで運んだ。

 「戦時中で一番命の危険を感じた」のは山手線で移動中のことだ。米軍機の機銃掃射を受け、急停車した電車から飛び降り、近くの防空壕(ごう)に逃げこんだ。「助かって良かったね」とみんなで抱き合ったという。

 戦況は悪化し、空襲も激しさを増す。45年3月の東京大空襲では自宅の数十メートル先まで延焼し、一面焼け野原に。4月13日には、現在の新宿・歌舞伎町にあった女学校の校舎が全焼した。

 〈駆け付けた級友や先生方と一緒に泣きながら、山のように瓦礫が散乱した校庭で、大切な資源になる金属片を拾ったり〉……。

 5月25日、突然ドスンと地鳴りがした。「家が浮き上がった感じがした」と宮坂さん。外に飛び出すと、大きなB29爆撃機が襲いかかってきた。路上に落とされた焼夷弾から吹き出る炎の行列。「もう駄目!早く、早く」と叫びながら、防火用水槽の水をかぶり、炎の中を夢中で逃げた。

 帰宅すると、自宅は焼け落ちていた。台所跡に落ちていた焦げた米を手ですくったり、親がくれた煎り大豆や乾パンをかじったり。空腹と不安に耐えながらの野宿生活は忘れられない。

 当時の心境について、宮坂さんは「『ほとんどの家が焼けていたので、みんなの仲間入りができた』『これでもう空襲にあうことはないから、頑張れるな』とかすかに思った」と話す。

 なぜ、語り継ごうと思ったのか。時代こそ違うものの、パンデミックの恐怖におびえながら自粛生活を送るコロナ禍と戦時中の記憶が重なったという。「戦争もコロナも人を介して広がる。収めることも人間にしかできない」と宮坂さん。

 いまの平和がどのようにもたらされたのか。過ぎ去りし日々に思いをはせることが一人一人の「少しの我慢」につながるかもしれない。そんな思いで、本制作を支援する朝日新聞の「朝日自分史」を利用した。

 日本舞踊と共に生きた人生とともに、手書きで原稿用紙につづった。本は5月に完成し、90冊を知人や親族に贈った。第1章「戦争を語り継ごう(戦時下の少女)」は27ページ分。先日、大学生の孫から「書いてくれてありがとう」とメールが届いた。世代を越えて思いが伝わったと感じた。

 時間を見て、これからも書き続けたいという。宮坂さんは「若い世代の方々に読んでいただける形にできたら。書きたいことはまだたくさんある」と話す。(加藤真太郎)

     ◇

 ●宮坂壽子さん著「名残の玉章 コロナ禍に想(おも)う過ぎ去りし日々……」の第1章「戦争を語り継ごう(戦時下の少女)」より部分抜粋

焼夷弾が家の敷地にも

 ラジオから雑音まじりで敵機集団の来襲が告げられた。空襲の警報が鳴り渡り同時に高射砲のバリバリと耳を打つ響き、空を見上げると闇の中に照明弾の光の筋が絡み合い炸裂(さくれつ)し、ただならぬ有様でした。

 突然、ドスンと地鳴りがし家が浮き上がった感じがしました。地震か? いや焼夷爆弾が屋敷内に落下した!!と瞬間、思いました。非常袋を背に慌てて表へ飛び出すと、突如B29の大きな機体が覆い被(かぶ)さって来たのです。一緒に走り出た母に咄嗟(とっさ)に突き飛ばされて、耳を手でおさえながら転びこむようにして道路に突っ伏しました。パイロットの顔が今でも思い出せるくらいはっきり見えました。道路上に落とされた焼夷弾から吹き出る炎の行列が体のすぐ横に続いて見えました。黒い塊の筒のような焼夷弾はあちこちに降りそそぎ、闇の世界は瞬く間に真赤な夕焼けのような光景に変わり、火は強風にあおられ、花火の中にいるような火の粉の渦に包まれてしまいました。「もう駄目!早く、早く」と叫びながら、父、弟、従兄弟と家の中から飛び出してきた皆は、手に火たたきとバケツをぶら下げていました。

火焰(かえん)旋風の中、避難

 逃げ場を失った私達は傍らの防火用水槽の水をかぶって、紅蓮(ぐれん)地獄さながらの炎の中を夢中で靖国神社へと向かったのです。火の海はあっという間もなく押し寄せて、壮大な建物が物凄(ものすご)い火焰(かえん)と旋風に包まれ炎上し崩れ落ちかかる凄絶(せいぜつ)な様子に身をふるわせながら、安全な場所をたどりたどりして、やっとの思いで千鳥ケ淵に安堵(あんど)の場所を見付けました。先に逃れて来ていた人々の群れは意外に静かでお互いの無事を確かめ合っていました。

焼け落ちた我が家

 心もそぞろに帰宅すると、自宅は無惨に焼け落ちていました。焼け跡になった我が家の目の前には、立ちはだかるように英国大使館だけが無傷で堂々と偉容(いよう)を誇っていました。椋鳥(むくどり)の大群のように飛来したB29の数十機の編隊の、その攻撃の正確さに舌を巻いたものです。

 庭先に作った防空壕は中まで火が入ってしまい大切なアルバムや本等の思い出深い品々はすっかり灰となっていました。

 敷地内には筒だけになった焼夷弾の燃え残りがゴロゴロと転がり、破れた水道管の水があちこちで溢(あふ)れ出ていました。地域全体が空襲の被害を受けたので、乾パン一個の支給もないのが当然だと思っていました。

 この時、崩れた築地塀越しに人声が騒がしいので覗(のぞ)くと大使館脇の道路にある防空壕から、逃げ遅れたのか、蒸し焼きになった数人の犠牲者が掘り出されている最中でした。身も心も疲労困ぱいの極みです。とりあえずトタン板を崩れ残った築地塀に立てて囲っただけの休める場所を作り、空腹と不安を抱えて野宿しました。親が何処からか調達してきた煎り大豆や乾パンをかじって耐えた二、三日間のあの頑張り、大した苦痛でなかった感覚は、今でも不思議でたまりません。

焼け跡での生活

 数日後には簡素なバラックの家が建ちました。

 バラック生活は敗戦後、進駐軍が上陸してきた九月まで続きました。

 時局は日増しに悪化したようでした。食糧難が軍隊にまで及んだのか、空腹に耐えかねたか若い新兵さんが「お豆でもなんでも……」と痩せた両手の平を出して物乞いに来るようになりました。

終戦日、時間が止まった

 八月十五日正午。動員先の学士会館ロビーに集合して、終戦の詔勅を聴きました。雑音のラジオから聞こえてきた玉音は不思議な悲壮感で耳に響いて来ました。

 最後まで頑張ってきた学友同士で、整理のつかない疲れを抱えながら、帰宅の足は自然に皇居に向かっていました。二重橋前の玉砂利には大勢の男女が頭をたれて慟哭(どうこく)する姿が其処此処に見えました。そこには戦争への反省、悲しみや怒り、敗戦のお詫びなどが一度に噴き出た異様な空間が拡がっていました。くずおれるように坐(すわ)った膝(ひざ)前の小石が溢(あふ)れ流れる涙に濡(ぬ)れていき、いつまでも時間は止まっていました。あまりにも大きな変化に戸惑った長い長い一日、これが敗戦の日の思い出です。