戦争の風化が叫ばれて久しい。一方で、忘れられるどころか世界の国々では遠い過去の戦争をめぐっていまだに対立したり、いがみ合ったりしている。戦争はどのように覚えられてきたのか。なぜ人々の記憶はすれ違うのか。米国を代表する日本近現代史の専門家で、第2次世界大戦をめぐる国々の記憶を研究してきた米コロンビア大のキャロル・グラック教授に戦後76年の今、私たちが考えるべき戦争の記憶の意味を聞いた。(聞き手・国際担当補佐 城俊雄)
日本も米国も「半分」しか語らなかった歴史
――「戦争と記憶」の研究とはどのような内容で、何を目指しているのですか。
グラック 世界の国々は第2次世界大戦をめぐるそれぞれの国民の物語や「共通の記憶(パブリック・メモリー)」を持っています。私は世界各地を回りそうした記憶がどうつくられ、変化したかを研究してきました。これまでの研究を通じて戦争の記憶は変化するということを学びました。単に世代交代だけでなく、様々な要因が変化の背景にあります。私も含め、戦争の記憶を研究しているすべての人たちはより良い歴史の方向へ変化を導こうとしているのです。日本人の戦争をめぐる記憶も変化してきました。こうした変化を知ることはとても大切です。
キャロル・グラックさん略歴
1941年生まれ。コロンビア大学歴史学教授。専門は日本近現代史。90年代から重要なテーマの一つとして第2次世界大戦をめぐるアジアやヨーロッパの「共通の記憶(パブリック・メモリー)」を研究している。著書に『歴史で考える』『Thinking with the Past: the Japanese and Modern History』など。
30年ぐらい前にはいわゆる「記憶研究」という学問分野は存在していませんでした。ですからこれは最近の現象といえます。いまではこの分野への関心は驚くほどグローバルに高まっています。2016年には私も創立メンバーとして加わった「記憶学会(Memory Studies Association)」という国際組織が設立されました。現在ではメンバーは千人以上に増えています。世界各地の学者や研究者、博物館や記念館の関係者たちが参加しています。注目に値することだと思っています。
――日本近現代史の専門家になった動機と、「戦争と記憶」に焦点を当てた研究に取り組み始めた経緯を教えてください。
グラック 私はもともと日本の社会や文化に興味を持っていました。学者としての関心の対象は19世紀から20世紀に起きた日本の近代化のプロセスです。日本の近代化と関わる明治時代の研究を起点として歴史学者になりました。19世紀のフランスやドイツ、中国、米国の歴史にも関心を持ち、グローバルな文脈で日本の明治期を近代化の一つの例として研究してきました。様々な国の近代化における差異よりも共通点や関連性に着目してきました。ですから、歴史学者として最初から戦争をめぐる記憶を研究しようという目標を立てていたわけではありません。実は、私がこの分野を選んだというより、この分野が私を選んだのです。
――具体的にはどういうことですか。
グラック 第2次世界大戦に関する多くの記念日がめぐってくるたびにあちこちからコメントを求められるようになりました。南京大虐殺から50年にあたる1987年にさかのぼります。多くの人にこの事件を記憶してもらおうと活動していた中国系米国人たちが企画した討論会に私はパネリストとしての参加を頼まれました。日本を研究する歴史家として私に日本の立場を代弁することを期待していたのかもしれません。彼らは戦争中に中国で起きたことを記憶に残そうと活動している「記憶の活動家(memory activists)」たちでした。それから4年後のパールハーバー攻撃50年、Dデー(連合軍のノルマンディー上陸作戦開始日)から50年の1994年、終戦から50年の1995年、そしてサンフランシスコ講和条約締結の記念日などにも歴史家としての見解を求められました。
この過程で私は戦争の記憶という問題を避けることができなくなってきました。そして、頻繁にこの戦争に関する人々の記憶の物語を聞くことになったのです。でもそうした物語はこの戦争に関する私の知識と異なっていたことが少なくありませんでした。こうして私は「記憶」と「歴史」の間にギャップがあることに気づきました。忘れられた過去の一部を思い出してもらい、彼らの体験を共通の記憶に含めようとする活動に私は共感を覚えました。たとえば、第2次世界大戦中に日系米国人が強制収容された事実について、米政府にその不正義を認めさせようとする日系米国人たちの取り組みはより「良い記憶(good memory)」のための活動だったと思います。
しかし、場合によっては、こ…