今も高校野球の経験からヒント おばたのお兄さんに聞く

構成・小川聡仁
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 「後悔ばかり、でも今があるのは高校野球のおかげ」。新潟県魚沼市出身で元高校球児のお笑い芸人、おばたのお兄さんが球児に応援メッセージを贈る。

 野球をやっていた父や兄の影響で4、5歳の頃にはグラブをはめていました。小学3年で地元の少年野球チームに入り、学校が終わると毎日バットとグラブを持って家を出てました。相手がいなくても、チョークで円をかいて、一人で投球練習してました。365日ボールを触っていた、根っからの野球少年でしたね。

 甲子園は、野球をはじめたころからの憧れでした。中学も野球部でしたが、地元の小出高校(魚沼市)は万年2回戦止まりの弱小校。本気で甲子園へ行こうと、中学3年の夏に地元で野球がうまい選手のスカウトをしました。「小出高校で甲子園にいくぞ」って。そのかいあって、私立の強豪校を志望していた選手も含めて5、6人が入学しました。

 スカウトしたこともあり、1、2年時は学年代表、その流れで3年は主将に。でも、なかなかうまくいかなかった。難しかったのが、部員の「熱量」の統一。強豪校のようにみんなが甲子園を目指して入ってきたわけではありません。でも、当時の僕はそこに気づけなくて。

 自分の甲子園への熱量を押しつけてしまった。意欲の低い部員には不平や不満を口にしていた。「お前らがいると空気が悪くなる」なんて。部員からは「主将がそれ言ったら終わりだろ」とまで言われましたね。チームの雰囲気が悪いまま迎えた新潟大会。あの夏のことは今でもめちゃめちゃ覚えています。

 2回戦の十日町戦。リードされた中盤で出塁。2死で二塁に進んだぼくは三盗を狙っていた。ふつう2死から三盗なんか必要ないんですけど。その時、スカウトした仲間が中前安打を放った。それなのに打者に集中していなくて、スタートが遅れ、本塁でタッチアウト。「二兎(にと)を追う者は……」ではないですが、プレーに迷いを入れては絶対にいけないんですよね。

 ベンチに戻った時、申し訳なくて。打ってくれた仲間に「ナイスバッチ」と言いました。その時の「ああ」って返事をした彼の目がね、忘れられないんですよ。「なんであんなスタートになるかね」と言われているような気がして。

 結局、試合は1―4で2回戦負け。あの場面で1点をとれていたらね、流れも変わっていた。チームの雰囲気も「これじゃ負けるよね」という感じ。主将として仲間の気持ちを推し量り、鼓舞することもできず、思い切ったプレーもできず。今でも本当に悔しいです。

 ミスの原因は日頃の練習でできていなかったから。2死二塁で安打が出たら絶対に本塁にかえってくる。そういう想定の走塁練習が徹底できていなかったのかもしれない。「これだけは絶対にやる」って決めて、それを信じてやり続けていたら、本番でも迷いがなく、自信あるプレーができていたと思うんですよ。

 後悔ばかりが残る高校野球でしたが、逆にいまは、その反省が生かされています。共演者や妻と接する時、相手を思いやり、状況を良くするための選択肢を冷静に考えることが出来るようになりました。高校野球の経験がなければ、いまのぼくはなかったと思います。

 チームプレーは好きです。きれいごとみたいに聞こえるかもしれないですけど。喜びを分かち合えるということは、本当にうれしさが2倍3倍と倍々になっていく気がするんです。つらい練習でも、仲間がいれば「めちゃくちゃつらかったよなー」って言い合いながら進んでいける。おかげで野球をやめたい、と思ったことはなかったです。仲間に救われたなと思います。

 野球からは多くを学びました。ぼくはいまだに高校野球の経験からヒントを得て、自分を改善しようと思うことが多いです。球児のみなさんはこの夏、甲子園を目指して全力を尽くすと思います。でも、勝ち負けだけではなく、いま過ごしている時間がみなさんの将来に大きく影響するんだ、ということを伝えたいです。(構成・小川聡仁)

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 おばたのお兄さん 1988年生まれ、新潟県魚沼市出身。吉本興業所属のお笑い芸人。俳優・小栗旬のドラマのセリフ「まーきのっ」のものまねでブレーク。歌手の森山直太朗などレパートリーは35以上に上る。小出高校の選手として、第88回全国高校野球新潟大会に1番二塁手で出場した。卒業後は日本体育大のラクロス部で活動。6月の東京五輪聖火リレーでは新潟県内1日目の最終ランナーを務めた。妻はフジテレビの山崎夕貴アナウンサー。