第2回教育勅語の暗記、拒んだ友に… 植民地で教師になるまで

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中野晃
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あの海の向こうに ~植民地で教えた先生~②(全5回)

 日中戦争は泥沼化し、欧州で第2次世界大戦が勃発する1939(昭和14)年。植民地朝鮮で生まれ育った杉山とみさん=富山市=はこの年の春、大邱高等女学校を卒業し、ソウルにあった「京城女子師範学校」の演習科に入学した。

 当時17歳。親元を離れての寮生活に心躍ったが、外出は自由にできず、規則による統制は厳しかった。起床や消灯の合図では軍隊式のラッパの音が響きわたった。戦意高揚のためか、敷地内には戦闘機が置いてあった。

 生徒は朝鮮各地のほか「内地」からも集まっていた。同級生が日本人だけだった女学校までとは異なり、日本人と朝鮮人の生徒が机を並べて学んだ。

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京城女子師範学校時代の杉山とみさん。寮の敷地内にあった戦闘機の前で=杉山さん提供

 朝鮮総督府が設置した官営学校だけあり、教育内容は徹底して「皇民化」を目指すものだった。

 校舎でも寮でも口にできるのは日本語だけ。「吾等恵まれて皇国(スメラミクニ)に生まる」にはじまり、皇国臣民としての大義を説く校訓をまず頭にたたきこまされた。

 授業はすべて日本に関する内容だった。国語では清少納言など日本の古典を学んだ。音楽では、君が代日本軍歌の「海ゆかば」、日本の祝日である紀元節など四大節の唱歌をオルガンで弾けるようになることが必須の課題だった。

 真冬に吐息がまつげに凍り付くような厳寒のなか、仁川まで一日中歩き続ける「耐寒行軍」という精神鍛錬の行事もあった。

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師範学校時代に訪れた平壌の玄武門前で。1940(昭和15)年ごろ撮影=杉山さん提供

 朝鮮の子どもたちを天皇陛下のために尽くす立派な皇国臣民に育てあげる。そんな植民地教育の先頭に立つ教員養成が師範学校の役目だった。

 杉山さんは身の引き締まる思いで日々の授業にのぞんだ。もともとは熱心な教員志望ではなかったはずだが、まじめに学ぶうちに、真綿に水が染みこむように自身の「皇民化」はすすんでいた。

 しかし、朝鮮人の友人の内心は違っていたのかも知れない。後でそう考えさせられる出来事が起きた。

 教育勅語を暗記する宿題が課…

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