第3回2人は学校に戻らなかった 「皇国臣民」を育てる教壇で

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中野晃
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あの海の向こうに ~植民地で教えた先生~③(全5回)

 太平洋戦争が始まる1941(昭和16)年の春、杉山とみさん=富山市=は植民地朝鮮の大邱で初めて教壇に立った。朝鮮人の子どもたちが通う達城国民学校で4年生を受け持った。

 朝鮮語の使用は絶対禁止。皇居の方角に頭を下げる「宮城遥拝(ようはい)」、天皇皇后の御真影教育勅語をおさめた奉安殿への最敬礼を繰り返させた。「私共は心を合わせて天皇陛下に忠義を尽くします」などと声をあげる「皇国臣民ノ誓詞」の復唱も連日させた。

 2年目には1年生の担任に。入学式の日、杉山さんは新入生の服の胸部に、創氏改名した日本式の氏名を書いた名札を縫い付けた。

 創氏改名 朝鮮総督府が皇民化政策の一環で1939年、朝鮮民事令を改正し、40年に実施。朝鮮の姓名から日本式の氏名にするよう求めた。伝統的に祖先を重用する朝鮮の人々に対し、応じなければ不利益を被るとして職場や学校などを通して届け出を迫った。

 運動場での青空教室。杉山さんが「すわりなさい」と呼びかけると、子どもたちは「スワリナサイ」と声をそろえてまねした。1年生はまだ日本語が分からなかった。「一日も早く日本語を覚えさせなければ」。そんな思いを強くした。

 いま、杉山さんは「子どもたちはどんなにもどかしかったでしょう」と想像する。不慣れな日本式の名前で呼ばれ、何よりも自分たちのことばを口にできず、つらかっただろうと。

 学校行事は戦争色が濃くなっていた。学芸会では、後醍醐天皇のために命を奉じたと敬われた武将、楠木正成が主役の「大楠公(だいなんこう)」を子どもらに演じさせた。戦地の兵隊に送る慰問袋に入れる絵巻物も作らせた。軍部に献上する「国防献金」のため、松笠拾いやタニシ捕りをさせた。

 国民学校には朝鮮人の教員もいたが、待遇に差があり、日本人だけ上乗せの手当があった。新任の杉山さんの給与は、家庭をもつ朝鮮人の先輩より高かった。

 職員朝礼は校長室の神棚の前であり、楠木正成が後醍醐天皇への忠義を詠んだという歌を全員で朗詠し、心身を引き締めた。

 戦時統制が強まるなか、衝撃的な出来事が起きる。

 日本の憲兵が突然、学校にや…

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