第5回「ゆく言葉が美しければ…」 風雪を超えて教師と生徒は

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中野晃
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あの海の向こうに ~植民地で教えた先生~⑤(全5回)

 釜山港を船が離岸するとき、生まれ育った朝鮮での日々が目に浮かんだ。

 1945(昭和20)年秋、杉山とみさん=富山市=は引き揚げ船で24年余り暮らした朝鮮を去った。

 福岡から列車を乗り継いで両親の郷里の富山に戻り、旧杉原村の親類宅に身を寄せた。慣れない農作業に汗を流し、行商もした。

 皇民化教育の最前線で戦争に協力したという後ろめたさと、朝鮮の教え子たちへの申し訳なさから「二度と教壇に立つまい」と心に誓っていた。

 だが、戦後の教員不足の中、たびたび教職復帰の誘いが来た。「困っている子どもがたくさんいる」と説得され、47年、出産で休む教員の後を受けて小学校の教壇に立った。教える内容は様変わりしていた。

 一方、朝鮮半島は激動期が続いた。解放後、北緯38度線を境に南側を米軍、北側をソ連軍が分割占領した。48年には韓国と北朝鮮が相次いで建国し、南北に分断される。

 引き揚げまで杉山さん一家を助けてくれた大邱の達城国民学校の教え子、金正燮(キムジョンソプ)さんからは再会を願う手紙が富山に届いたが、やがて朝鮮戦争(50~53年)で音信不通になった。

 札幌冬季五輪大会が開かれた72年、思わぬ形で金少年の消息を知った。札幌駐在の韓国領事として活躍していた。夫人は杉山さんを慕っていた教え子の金三花(キムサムファ)さんだった。五輪後、27年ぶりの再会を果たし、3人で一緒に「春の小川」や「アリラン」を歌った。

 76年、杉山さんは帰任していた金夫妻の招待を受け、31年ぶりに「生まれ故郷」の韓国を訪ねる。ソウルの金浦空港では教え子や師範学校時代の同窓生が出迎えてくれた。

 4年余り教壇に立った大邱にも向かった。バスが着くと、民族衣装姿の女性が「先生」と駆け寄って来た。手をとりあった。

 歓迎の宴で、杉山さんは皇民化教育でみんなを無理に日本人にしようとしたと過去を振り返り、わびた。ずっと自責の念にさいなまれ、口にせずにはいられなかった。教え子たちはただ静かに話を聞いていた。

 日本や日本人への不信感からか、出席を拒んだ教え子もいた。「先生が謝罪した」と伝え聞いたようで、その後の訪韓時には姿をみせてくれた。

 気がかりなままの教え子がいる。達城国民学校の4年時に担当した朴小得(パクソドゥク)さん。卒業後、当時の担任らに「働きながら勉強もできる」と勧められて「女子勤労挺身(ていしん)隊」に加わり、富山の軍需工場に動員された。

 杉山さんは両親の郷里が富山…

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