六代目菊五郎もてなした米の飯 戦時中の歌舞伎巡業日誌

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西本ゆか
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 昭和初期から終戦直後にかけ、大歌舞伎の一座が全国を巡った「旅行日誌」が見つかった。同行した狂言作者の竹柴薪助(しんすけ)(1883~1975)が残したもので、巡業先での宿や劇場、交通手段などが克明につづられ、記録の乏しい地方巡業の実態を今に伝える貴重な資料だ。興味深いのは戦後の混乱期の食糧事情や、巡業先での名優六代目尾上菊五郎ら一座の様子。厳しい時勢下でも役者の来訪を喜び、もてなす地方の人々からは、歌舞伎が当時も決して「不要不急」ではなかったことがうかがえ、巡業という「旅」を楽しむ役者たちの姿も、黄ばんだ日誌の行間からいきいきと浮かび上がる。

 日誌は孫の東京都国分寺市、岡崎成美さん(64)宅で見つかった。旅先でのメモを清書したと見られる細かなペン字でぎっしり書き込まれた13センチ×18センチの型判で、約140ページ。多くは年代ごとにこよりで和とじされ、「旅行日誌」と手書きした封筒に入れられていた。

 狂言作者は元々は劇作家を意味したが、近年では開幕の「柝(き)」を打つなど、舞台進行の担当者を指す。役者との関係性でさらなる役割を担うこともあり、六代目と生家が近く、幼時から交流があったという薪助は信頼も厚かったことから、巡業先でも金銭出納など、一座のマネジャー的役割を務めたと見られる。

一座の「マネジャー」が克明な記録

 最初の日誌は「昭和七年拾(じゅう)月」(1932年10月)。9月29日午前8時25分の列車で東京を出発し、翌30日午後3時10分に下関入りした一座が泊まった旅館や劇場名、舞台の間口や客席数といった簡潔な記録だったが、その後はぐんと詳細さを増す。35年7月には「連込(つれこみ)的ノ宿」「喰物(くいもの)ゼロ」と巡業先の宿を酷評(福井)。金沢では「お化(ばけ)宿」とうわさも記し、長野・上田では「楽屋口ニ湯屋あり女湯眼下」と、見方によっては危険な情報も書き残している。

 楽しげなのが36年の夏巡業。7月中旬の高松では宿の布団に「至(いたっ)て薄し」と苦言を呈しつつも、「六代目丈と屋島へ行くケーブルにて登る」とあり、役者らが巡業先で名所観光に出かけていた様子が伝わる。屋島の帰りには昼食をとった地元の料亭で句会を催し、薪助は「三朝」の俳号をもつ六代目から「三衣」の俳号を受けた、と記す。この巡業では行く先々で句会を開いており、俳句が一座のブームだったようだ。

 同月下旬の大分では、ぎりぎりの日程での移動が多い巡業には珍しく、公演4日前から別府の「親切ナ宿」に滞在。「廿一(にじゅういち)日より廿五日(大分の初日)まで遊ぶ」「廿二日雨の中を六代目丈と地獄めぐり」と筆致も軽い。ここでも初日前夜に「温泉にて夜九時迄(まで)」句会を開催。盛り上がりが過ぎたか「翌日男女蔵 松助 多賀之丞 菊五郎の諸優 温泉ニあたり下痢す」とはらはらさせるが、初日は「(午後)四時開幕 別府より通ふ」とあり、大事には至らなかったのだろう。

 だが戦火は着実に近づいていた。37年7月、幕開けの博多では役者らで「チップ 茶代女中へ三円宛(ずつ)」などとのどかに記していた薪助は、移動した神戸では「北支事件ぼつ発」と書き残す。近衛文麿内閣が盧溝橋事件に始まる「北支事変」への声明を出し、中国との戦争へと突き進んだのだ。

とっておきの「ウヰスキー」

 当初は巡業への影響もさほどなく、多くの都市で切符が完売するなど戦の影も薄かった。空気が一変したのは41年末、太平洋戦争が始まってからだ。戦局が深まるにつれ、役者は「慰問」にかり出され、「(空襲)警報解けず休演」といった注記も増えていく。44年8月を最後に「旅行日誌」の記録は途絶えている。

 再開は46年夏。食糧難の東…

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