「夕焼けは嫌い」 ある被爆者が私たちに残した宿題

有料会員記事核といのちを考える

比嘉展玖
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 「夕焼けは嫌い」が口癖だった。姉は燃え続ける広島の街から帰ってこなかった。その人は苦しみを抱えたまま、国境や世代を超えて、多くの人にあの日の惨禍と向き合ってもらおうとした。命は途絶えても、残してくれたものがある。

 被爆者の岡田恵美子さん。4月10日、84歳で生涯を閉じた。被爆体験を伝える活動を30年以上続け、米国など海外でも体験を語った。15年には、被爆者を代表してノーベル平和賞の授賞式に出席。そんな彼女に背中を押され、つらい体験を語り始めた人がいる。

原爆孤児に そして、失意で去った故郷

 「みなさんと同じ6年生の時、突然一人で生きていくことになりました」。広島市中区平和記念資料館で7月5日、川本省三さん(87)=同市西区=は脳梗塞(こうそく)の後遺症でまひが残る右足を引きずりながら、修学旅行で来た兵庫県の子どもたちに語り始めた。

 原爆投下時、集団疎開していて助かったが、市中心部の自宅などにいた両親と姉、弟、妹を失い、孤児になった。靴磨きや炊き出しの仕事で食いつないだ。23歳の時、結婚を約束した女性の父親に「お前は放射能に汚染されている」と断られ、失意のまま岡山市に移った。被爆者であることを隠した。

 故郷に戻って住み始めた2004年、岡田さんと地元の行事で知り合った。交流を深める中で生い立ちを打ち明けると言われた。「できることを一緒にやりましょう」。思い出したくないが「語らなければ、孤児の存在がなかったことにされてしまう」と思うようになった。被爆体験を語る「証言者」の活動を始めた。

 証言者は毎年、平和記念資料館を運営する広島平和文化センターから委嘱される。「今年が最後」。今年4月9日の委嘱式に、脳梗塞で倒れたばかりの体で臨んだ。岡田さんが突然倒れたのは、その翌日だった。自身の健康も不安だが、岡田さんのぶんまで体験を語り続ける決意をした。生前の姿を思い浮かべ、最近は証言の最後をこう結んでいる。「まずは自分から平和のために動ける人間になってください」

     ◇

いつもと違うおばあちゃん

 岡田さんの孫でダンスインストラクターの富永幸葵(ゆうき)さん(24)=東京都=は、広島市内で育った。祖母が被爆について家で話すのを聴いたことはなかった。

 母親は難病を患っていた。祖母は「私の被爆が原因ではないか」と悲しんでいたという。「お母さんや私に心配させないように体験を話さなかったのかな」

 小学6年の時、学校の平和学…

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