小学生から「日本はどこと戦争?」 88歳が受けた衝撃

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伊東邦昭
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 愛媛県松山城天守を仰ぎ見る城山公園堀之内地区。その北口を出た、若草町あたりの山裾の道を歩いていると、花壇の中に表面がボコボコした石柱を見つけた。大きく、いかめしい字で「陸軍」と彫られていた。

 「昔の陸軍の敷地を示す境界標ですね」。公園を管理する松山市公園緑地課主査の西村直人さんが教えてくれた。市の1985年の調査では、天守がある丸之内地区の山肌などに境界標の石柱が43基あったという。現在も多くが残されたままだと推測されている。

 市民の憩いの場である堀之内地区には、かつて陸軍歩兵第22連隊があった。1884(明治17)年に編成が始まり、4年後に3個大隊の編成が完了した。太平洋戦争の末期には沖縄戦に加わり、1945年6月、「玉砕」した。

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 「戦前の連隊は街になじんでいて、兵隊の家族は面会日に中に入ることも出来たんですよ」

 市内に住む大西郁(かおる)さん(88)は、幼少の頃を懐かしそうに振り返った。手には、一人の男性が写ったモノクロの写真がある。

 大西さんは戦前、堀之内地区の南、伊予鉄道松山市駅近くにあった、弁天町(現在の千舟町付近)のおじの家に預けられていた。そこで父親代わりになってくれたのが、いとこの夫である中川貢(みつぎ)さん。写真の男性だ。22連隊の中隊長だったという。

 写真に写る貢さんは、ワイシャツにネクタイをきっちり締め、リラックスした様子でほほ笑む。「とにかく優しい人でした」

 今でも、貢さんが作ってくれたチキンライスの味を覚えている。「連隊の食堂で食べさせてもらったことがあって、また食べたいって、ずっと言ってたんですよ。そしたら兄さん(貢さん)が、瓶の底に少し残ったケチャップを持って帰ってきて、作ってくれて。忘れられません」。休日には貢さんの馬に乗せてもらい、温泉へ連れて行ってくれたこともある。

 松山市駅周辺は、お日切さん(日切地蔵)の祭りなどがあると、人でごった返した。大西さんは駅前の映画館に友達と入り込み、廊下で練習をしている無声映画の弁士や、看板を描く絵師、スクリーンがある舞台の下にいる楽団の様子をのぞいて遊んでいた。連隊の兵士たちも、休日には道後を訪れていたと聞いたことがあるという。

 にぎやかで、おおらかな空気に包まれた松山の街は、41年の太平洋戦争の開戦とともに、重苦しいものへと変わっていった。

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 44年、番町国民学校(現在の番町小学校)の5年生になった大西さんは、製材所で松ヤニをとる作業に従事した。男子児童が丸太の樹皮をはぎ、女子児童がへらでこそげ取った。

 松ヤニは、戦闘機の燃料であるガソリンの代わりにすると聞かされていた。体が弱かった大西さんは、松ヤニの強いにおいを嗅いだだけで気分が悪くなったが、作業を続けた。

 食料の配給も少なくなった。「城山でどんぐりを拾って食べて、空腹をしのいでいました」

 そして、45年7月26日の深夜。街に警報が鳴り響いた。松山空襲だ。

 家には6年生の大西さんとおじ、病気で寝たきりのおば、そして「姉さん」と呼んでいた、貢さんの妻と赤ちゃんがいた。おじは事前の約束通り、先に荷物を持って郊外の避難先へ。大西さんは、おばを乗せて運ぶリヤカーを近所で借りようと、家を飛び出した。

 しかし、手に入れられなかった。おばを担いで助けようと家の中に入ろうとしたら、姉さんに「入ったらだめだ」と制止された。空襲が迫っている。逃げざるを得なかった。

 「おばさんを見殺しにしてしまったんです。警報が鳴り始めてから爆撃まで、30分はあったと思う。その間、布団の上で動けずに残され、死ぬことを悟ったおばさんは生き地獄だったでしょう。ずっとお世話になってきたおばさんを、私は地獄に残してしまった」

 翌朝、おばの遺骨を拾いに行くため、姉さんと歩いて市街地に戻った。その途中、米軍のグラマン戦闘機に遭遇。地面にめり込んだ機銃掃射の弾の破片が、大西さんの左腕に当たった。結局、焼け跡には行けなかった。「けがをしたのは、おばが焼け死んだ姿を見せたくなかったからでは」と姉さんが話してくれた。

 松山市史によると、空襲で約1万3900発の焼夷弾(しょういだん)を落とされ、251人が死亡。市中心部の大半が焼失した。3週間後、終戦。貢さんは、22連隊が玉砕した沖縄戦には参加せず、高知県にいて無事だった。

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 「復興は早かった。あっという間にバラック小屋が立ち並んでいましたから」

 連隊があった堀之内地区は兵舎などが焼け残り、進駐軍が一時接収した。48年3月、駐留していたイギリス軍が引き揚げると、市営球場の建設が始まり、7月に「松山総合グラウンド」が完成。スタンドは土を盛って造られ、学制改革でこの年に改称した全国高校野球選手権大会の県予選の舞台になった。

 復員した貢さんは家業だった菓子問屋を継いだ。大西さんも貢さんの会社で、一時働いた。

 終戦から約46年後。貢さんの晩年、大西さんは晩ご飯のおかずを持って、毎日のように病院を見舞った。話が弾むのは、戦前の穏やかな時代の楽しい思い出話だった。

 戦後75年の昨年から、大西さんは松山市の「平和の語り部」事業に講師として参加する。夏が近づくと、学校の平和学習の一環で、オンラインで講演する。

 「私、7月が嫌なんですよ」。大西さんが、ぽつりと口にした。「おばさんの苦しみを思うと、自分の胸にしまいきれない。だから、戦争がどれほどいけないことか、語り部の活動で若い人たちに伝えたい」

 だが、小学生からの質問に、衝撃を受けた。「日本はどこと戦争したんですかって。戦後76年、私にはあっという間だったけど、今の子どもたちにとっては遠くて、私の世代が江戸時代をみるような感覚なのかもしれない」

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 歩兵第22連隊をしのばせるものが、愛媛県護国神社松山市御幸1丁目)に残る。連隊にかつてあった歩哨舎と忠魂社が、境内に保存されている。

 額田照彦宮司(64)による…

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