広島と長崎で2度被爆、ある姉弟の記憶 76年ぶり訪問

核といのちを考える

福冨旅史
[PR]

 広島と長崎で2度被爆した女性が、76年ぶりに広島に戻った。ともに被爆した弟の遺族として平和記念式典に参列するためだ。胸にしまいこんでいた記憶。それでも広島行きを決意したのには理由があった。

 「きれいな街になったね。当時は道なんてなかったのに」。6日の平和記念式典に青森から出席した福井絹代さん(90)はそうつぶやいた。

 1945年、当時14歳。広島市千田町(現・中区)の一軒家で、2歳下の弟の相川国義さんと2人で暮らしていた。長崎市に住んでいたころに両親が離婚。父に連れられ広島へ。父が出征すると、姉弟2人暮らしになった。工場で働きながら、弟を世話した。

 あの朝、爆心地から約1・8キロの自宅で下敷きになったが、国義さんが引っ張り出してくれた。当時の様子を国義さんが手記に残している。

 《ビカビカ パリパリと雷鳴のような音がした 数秒後グワーッと、熱風が吹き付けてきた 朝だと云(い)うのに、夜のように暗くなってしまった》

 立ち上る炎を避けながら、2人は近くの山へ逃げ、無数の遺体で埋まった草むらで夜を明かした。

 《火傷(やけど)でベロベロになった人や全身血だらけの人達(たち) 泣き叫ぶ声が凄(すさ)まじい》

 「長崎に帰ろう」。行き場をなくした2人は母がいる故郷をめざし、広島駅から列車に乗った。

 《この先長崎で広島と同じ地獄を見ようとは、夢にも思ってみなかった》

 長崎駅に着く直前、2度目の原爆に遭った。長崎市内で被爆したものの無事だった母の実家に身を寄せた。それから約2カ月間は下痢や頭痛が止まらなかった。

 11月に戻った父に連れられ、東京へ。福井さんはそこで結婚し、55年から夫の実家がある青森で暮らした。2人の子どもにも恵まれた。

 被爆したことは隠したまま生きてきた。広島や長崎から来たと友人に言えば、「ピカドンだ!」と冷ややかな視線を向けられた。夫や子どもにも詳しく語らなかった。

 気持ちが変わり始めたのは2011年に夫が亡くなったころだ。17年には長崎の国義さんが亡くなり、自身も貧血やめまいの回数が増えた。杖を使う日々。ふと人生を振り返ったとき、浮かんでくるのはあの日の広島だった。思い出したくない記憶は、忘れたい記憶ではないと気づいた。

 「街を見るのが怖い」。8月5日、広島空港からの車内でそう言っていた福井さんの様子が、広島市内に入ると変わった。身を乗り出し、窓の外をのぞきこんだ。ゆったり流れる川面が見えた時、目を潤ませて言った。「思い出してきた。私はこの街で被爆したんです」

 7日、新幹線で長崎に発つ。76年前と同じ道をたどり、9日の平和祈念式典に出席するためだ。「心に焼き付けたい。これが最後だと思うから」(福冨旅史)

核といのちを考える

核といのちを考える

被爆者はいま、核兵器と人類の関係は。インタビューやコラムで問い直します。[記事一覧へ]