夫と「再会」つかの間、亡くなった母 昼夜働き6人養育

知る戦争

進藤健一
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 終戦記念日が近づいている。日中戦争以降、日本の軍人・軍属らだけで約230万人が命を落としたとされるが、その何倍もの人々が、最愛の夫を、父を、兄を亡くして深い悲しみに暮れた。厚生労働省によると、戦争で夫を失った女性だけでも、全国で42万人以上とされる。

行田の沢田さん 戦没者追悼式に参列へ

 「何も年のいった洋品店主を戦場にかり出さなくても。母は大黒柱を失い、大変な苦労を味わいました」

 そう話すのは、埼玉県行田市藤原町の沢田敏代さん(83)。地元で愛された洋品店「小暮や」を細々と営んでいた父、石井富太郎さんは1943年4月、旧満州に出征した。当時、父35歳、母の千代さん31歳。家には、まだ5歳だった敏代さんら幼子6人が家に残された。

 「とうちゃんはきっと帰ってくる」。そう信じていた千代さんは終戦後、同じ部隊の復員兵のもとを何度も訪ね、父の消息を尋ねた。旧ソ連軍に抑留され、モンゴルのウランバートル近くのホジルブラン収容所に送られたことはわかったが、復員兵の口は重く、「何も教えてくれなかった」と泣きはらす母の姿を、敏代さんは覚えている。後に現地を慰霊訪問した敏代さんは「凍傷のために抑留兵が次々と命を落とした厳寒の地。想像をはるかに超える過酷な環境だけに口にすることができなかったのではないか」と話す。

 父の死を告げる公報が届いたのは戦後3年たってから。父はすでに終戦から1年近く経た7月28日に、ウランバートルの病院で肺病のために死亡していた。白木の箱には、遺品も遺骨もなく、父の名が書かれた紙1枚が入っていただけだった。

 戦後の物資不足。千代さんは洋品店をたたまざるを得ず、近くの足袋工場に働きに出た。生活費を稼ぐため、帰宅後も夜なべで縫製の仕事をする日々。「気丈な母は、女手一つで家族を支え、私たち姉弟を懸命に育ててくれた。母が寝ている姿など見たことがなかった」と敏代さん。

 父の遺骨が故郷に戻ったのは2007年5月。政府が収集した遺骨が、DNA鑑定で父のものと断定されたのだった。出征から64年の歳月が流れていた。「とうちゃん、やっと会えたね」。千代さんは、失われた夫婦生活を取り戻すかのように、遺骨に向かっては、朝青龍モンゴル出身の力士の活躍ぶりや、家族の毎日のできごとを報告していた。夫との「再会」もつかの間、千代さんは1年後、97歳で亡くなった。

 8月15日。いとしい肉親や家族を戦争で奪われた遺族たちが、今年も全国戦没者追悼式会場の日本武道館東京都千代田区)に参列する。敏代さんも県遺族代表で、こんな思いで献花に臨む。

 「幼子を残し、遠い異国で帰らぬ人となった父はどんなに無念だったか。残された母の苦労もはかりしれない。こんなばかげたことはない。二度と『戦争未亡人』を作らないで」(進藤健一)

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