古墳とのかかわり、江戸時代から紹介 高崎で企画展

角津栄一
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 群馬県内では全国でも有数の約1万4千基の古墳が確認されている。江戸時代から現代まで古墳とのかかわりを文献や出土品とともに紹介する企画展「古墳大国群馬へのあゆみ」が県立歴史博物館(高崎市)で開催中だ。明治時代、県内に皇族の御墓、陵墓が存在していた時期があったことも紹介されている。

 博物館によると、県内に数多く残る古墳と、その遺物は古墳時代の群馬が東日本でも屈指の有力地域だったことを示す。東京国立博物館所蔵の古墳遺物のうち、県内出土の資料が圧倒的に多いという。

 古墳は3世紀中ごろ前後から7世紀にかけて、各地で主に有力者の墓として築造された。その一画が社寺地になっているところも多く、地域社会の中で神聖な場所として意識されてきたという。

 中世以降、古墳は文献に登場する。江戸後期の寛政元(1789)年7月に作られた白石村(現在の藤岡市)の絵図には、白石稲荷山古墳と、白石二子山古墳が山として描かれている。白石稲荷山古墳の名前の由来である稲荷明神の記述もある。

 明治期に入ると、政府が地域の歴史の編纂(へんさん)を始め、県内でも各村から村誌が県に提出された。古墳の情報も記載され、下大屋村(現在の前橋市)の大黒塚古墳の出土品を持ち帰った石工がたたりにあった話が紹介されている。

 石工が、石を掘り出した際に見つけた鏡や曲玉(まがたま)、埴輪(はにわ)を持ち帰り、数日後から体中、原因不明の激痛に襲われ、占師にみてもらうと、「たたりのせいだ」と言われた。石工は古墳から持ち帰ったものを神社に寄贈すると、痛みが取れたという。

 明治政府は、陵墓の被葬者の皇族を特定する「治定(じじょう)」を進めた。前橋藩は明治2(1869)年、古墳に第10代崇神(すじん)天皇の皇子「豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)」の碑がある総社二子山古墳について、政府に陵墓とするよう申請した。政府から正式な回答はなかったものの、御墓を管理する役人の任命を認められたことから、地元では陵墓として認定されたものと受け止められた。

 ところがその後、他の御墓を調査しなければ断言できず陵墓とは認めないという通知が、国から届いたとされる。

 古墳は、学校の校歌にも登場する。高崎市立京ケ島小学校の校歌(1967年制定)には、「王山」という言葉が使われている。これは、陵墓だという伝承が伝わる元島名将軍塚古墳のことをさしているという。

 博物館の佐藤有学芸員は、「明治期には、民間人が発掘調査をして出土品を整理して公開した事例や、英国外交官など多くの人が出土品の見学に訪れた記録なども展示している。古墳との向きあい方の変遷を知ってほしい」と話している。9月5日まで。(角津栄一)