第4回「気晴らし」か「余暇」か ギリシャ哲学から考える五輪

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聞き手・大内悟史
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 新型コロナウイルスの感染が急速に拡大するなかで開かれた東京オリンピックが閉幕した。開催をめぐっては賛否が分かれ、オリンピックの魅力や意義を改めて見つめ直す機会ともなった。原点といえる古代ギリシャのオリンピックに通じる納富信留(のうとみ・のぶる)・東京大学教授(西洋古代哲学)に聞いた。

 ――東京オリンピックをどう振り返りますか。

 「復興五輪」や「コンパクト五輪」を掲げた招致の段階から違和感があり、大会運営の面でもずさんで無責任としか言いようがない問題が続出しました。開幕後も冷や冷やしながら見守りましたが、無事に終えられてよかった、というのが第一印象です。

 コロナ禍のなかの今大会は、オリンピックの是非について、関係者や開催都市だけでなく各国の選手や世論まで巻き込む形で国際社会の全員が論点を共有し、いや応なく問い直す機会になりました。今までずっと開催してきたからこれからも開催するといった惰性ではなく、オリンピックをなぜ開催するのかという本質的な意義を根っこのところから問い直すきっかけになったのではないでしょうか。

 ――オリンピックはなぜ人をひきつける魅力があるのでしょうか。

 125年の歴史に過ぎない近代オリンピックは、古代ギリシャのオリンピックを理想としました。紀元前8世紀から紀元後の4世紀にかけての1100年超の間に計293回開かれた伝承が残る古代オリンピックは、ポリス(都市国家)が多数ひしめき合うギリシャ世界の神ゼウスに捧げる宗教的な祭典で、ローマ帝国統治下でも長く続きました。古代ギリシャの競争(アゴン)的な文化と地中海世界の平和や協調を体現した場でした。

 現代オリンピックは、欧米の主要国がそうした古代ギリシャのオリンピックを美化し、自らの理想像を投影して生み出したものです。競技・種目数や参加人数が多く、今では、サッカーW杯などの他のスポーツイベントや、国連総会主要国首脳会議サミット)などの国際会議を超えた唯一無二の国際交流の場となっています。200を超える国・地域の選手や市民ボランティアなどに開かれたオープンさと、誰もが巻き込まれているような一体感があります。

 ――現代のオリンピックが古代から引き継いだものとは何でしょうか。

 現代のオリンピックの魅力の核心部分は、肉体と精神を究極まで鍛錬した選手が競い合う姿と、そうした運動競技を通じて交わされる国際交流ということになるのでしょう。

 東京オリンピックでも開催直前まで大会運営のあり方を批判し、中止を訴えていた多くのメディアや世論が、競技が始まれば選手の活躍に注目し、勝者の栄誉や敗者の健闘をほめたたえました。「手のひら返しだ」と冷ややかな声もありましたが、古代と現代に共通するオリンピックの本質は「集まる、観(み)る、讃(たた)える」。多数の参加者が集まり競い合う姿を大勢の観客が目撃し、人間の持つ可能性を切り開いた優勝者の栄誉がたたえられる。そうしたオリンピックの求心力は、ほぼ無観客の今回も、競技の模様を伝えるメディアやネットを通じてかろうじて維持されました。

 ――競技に参加する(集まる)選手だけでなく、「観る」側の観客や「讃える」側の社会なども必要とされるのですか。

 神に捧げる宗教行為だった古…

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