隠された義勇軍の過去、なぜを追った娘 写真集を頼りに

知る戦争

清野貴幸
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 父はなぜ、当時の体験を家族にも明かさなかったのか――。太平洋戦争前から戦時中、「満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍」として全国から若者が国策で満州(中国東北部)に送り込まれた。高知市の織田千代子さん(74)は父の定(さだむ)さんが義勇軍に加わっていたことを他界後に知った。その経緯を調べ上げ、今年1冊の本にした。

 書名は「鍬(くわ)の戦士 父・前田定の闘い」。前田は織田さんの旧姓、「鍬の戦士」とは当時もてはやされた義勇軍の別名だ。

 定さんは2016年、92歳で生涯を終えた。隠された過去を知ったのは2年後の三回忌の夜だった。

 「お姉ちゃん、おやじが残したものがある。どうしよう」。定さんと同居していた織田さんの弟の民良(たみよし)さん(当時65)が取り出したのは風呂敷包み。中には分厚い青い表紙の写真集と、数十枚のスナップ写真が入った茶封筒があった。

 表紙をめくると「昭和14年度満蒙開拓青少年義勇軍」と書かれ、大地を開墾する若者の写真があった。初めて目にした遺品。茶封筒には義勇軍のたすきを着けた定さんの写真があった。大陸に渡っていた頃とみられる写真もあった。戦後生まれの織田さんは義勇軍自体を知らず、生前に本人から聞かされたこともなかった。

 民良さんは自分の名前を、定さんが所属していた開拓団の団長にあやかって付けたと本人から教えられていたことも明かした。民良さんは間もなく、不慮の事故で亡くなった。

 織田さんは義勇軍について調べ始めた。

 満蒙開拓青少年義勇軍は成人だけでは足りなくなった満州への移民を補う目的で発足し、1938年に募集を始めた。若者たちは茨城県にあった内原訓練所と満州で農業技術などの訓練を受け、ソ満国境などに入植していった。高知県安芸市の貧しい農家の三男として生まれた定さんは39年に15歳で義勇軍に入り、45年に帰国して兵役に就いて間もなく敗戦となった。

 著書には、定さんの生い立ちから義勇軍創設までの歴史、内原訓練所での訓練内容などを盛り込んだ。定さんが志願した理由について、長男が家督を相続する時代にあって訓練が国費で賄われ、広大な田畑を持てる自作農になれるとの話を聞き、「父の心は揺れ動いたでしょう」と記す。同じく本人から聞くことができなかった満州での生活と重ね合わせるように過酷な日々を回想した体験者の手記を収録した。

 織田さんは調査と取材のため、内原郷土史義勇軍資料館(水戸市)や東京都内の開拓団関係者の慰霊碑などに足を運んだ。義勇軍に入る少年を見送った経験がある県民の話も人を介して聞き取った。若者の勧誘に教師が大きな役割を果たしたこと、マスコミも後押ししたことも当時の新聞記事とともに盛り込んだ。

 本が完成して初めて、父を理解できた。それが織田さんの偽らざる心境だ。子どもの頃に定さんに甘えた記憶がなく、家族にも優しくない姿に反発心すら抱いていた。

 しかし今は思いやる。青春時代に厳しい環境下に置かれ、他人に言えない体験をしたかもしれない。心に傷を負い、優しさをうまく表現できなくなったのではないか――。定さんが生前、満州での体験を「誰にも言わずに墓場まで持っていく」と近所の人に話していたことを最近知った。

 定さんは年賀状など身の回りのほとんどを生前に処分していた。織田さんは「写真集などを燃やさず残したのは父からのメッセージだと思う。戦争を伝えることは私たち世代の責任」と語る。

 満州事変から今年で90年。「鍬の戦士 父・前田定の闘い」は自費出版だが、高知県内の主な書店で取り扱っている。(清野貴幸)

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〈満蒙開拓青少年義勇軍〉成人だけでは足りなくなった満州への移民を補う目的で政府が発足させ、1938年から募集を開始。「高知県満州開拓史」によると、おおむね16~19歳の青年を対象とし、38年度は全国から3万人を募集する目標を掲げた。38年1月から5月末までに内原訓練所(茨城県)に入所した第1期生は全国で約1万5千人。高知県出身者は182人。

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