「よう燃えて。見事」 焼ける家見守るしかなかった朝

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井石栄司
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 終戦から76年。戦争を体験した世代が少なくなっていく中、80歳を過ぎてもパソコンを使ってマンガを描き、発表用ソフトを駆使して大阪大空襲を語り継ぐ元小学校長が堺市にいる。大阪の夜空を赤く染めた夜、何があったのか。語り継ぐ思いとともに聞いた。

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パソコンを駆使して戦争体験を語り継ぐ竹村健一さん=堺市堺区

 今年7月22日、堺市堺区の雑居ビルの一室でユーチューブチャンネル「堺平和のための戦争展」の動画撮影があった。大阪大空襲語り部として招かれたのは、大阪府松原市の元市立小学校長の竹村健一さん(84)=堺市西区=。堺市や松原市の学校などに招かれ、語り部の活動を続けている。

 この日、竹村さんが用意した資料は、自ら描いたマンガや戦前の写真など124枚。発表用ソフトを使って編集した。

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核兵器の恐ろしさを描いたマンガもある

 語り出した大阪大空襲の様子は次のようなものだった。

 戦前、竹村さん一家は、現在の地下鉄四つ橋線花園町駅前(大阪市西成区)で薬局を営んでいた。大阪で8度に及んだ米軍の大空襲のはじまりは、1945年3月13日深夜だった。

 当時国民学校1年生だった竹村さんはきょうだいと一緒に寝ていたが、けたたましい空襲警報のサイレンにたたき起こされた。父は消防署にかり出されて不在だった。母に連れられ、3人の弟や妹と一緒に自宅に掘ってあった防空壕(ごう)に逃げ込んだ。

 聞いたことがない爆音。家族5人が穴の中で身を寄せ合った。防空壕のふたが開き、隣家のおじさんが顔をのぞかせた。

 「家もろとも丸焼きになるで。焼き芋と一緒や」

「地獄絵」と化した大阪

記事後半では竹村さんが見聞きした大阪大空襲を竹村さんのマンガとともに紹介します。戦後は小学校で教壇に立つことになった竹村さんが戦争体験を語り継ぐことになったきっかけや、パソコンを駆使して自らの記憶をデータ化する思いについても聞いています。

 せかされて穴からはい出ると…

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