飛び立つ軍用機 どんな思いで眺めたのか

上田雅文
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 戦争では、人の命を奪う兵器としても使われる飛行機。少年はどんな思いで見つめていたのだろうか。飛行兵らが飛行技術の教育を受けた「熊谷陸軍飛行学校桶川分教場」(現・埼玉県桶川市)の訓練施設「川田谷飛行場」近くに暮らし、軍用機を眺めていたという人に尋ねた。

 夏の強い日差しが照り注ぐ7月半ば、埼玉県桶川市と川島町にまたがる民間エアポートが見える場所に、市内に住む天沼一(はじめ)さん(88)と一緒に立った。

 「ここに大きな格納庫があって、じっとりと油のにおいが漂っていた。周辺には『赤とんぼ』がずらっと並んでいた」

 10歳前後だった1940年代前半に見た風景をこう語った。この場所は、かつての川田谷飛行場。赤とんぼとは、だいだい色に塗られた練習機の愛称だ。

 友人としばしば、離着陸する赤とんぼを眺めにやってきた。土を固めた滑走路は、今と同じように荒川に沿って長く伸びていた。赤とんぼが近づくと、真剣な表情で操縦桿(かん)を握りしめる訓練兵が見えた。

 「北側の滑走路端で待っていると、頭上10メートルくらいを『ゴゴー』と地面が割れるような爆音をたてて飛んでいった。その後に漂う排出ガスがやけにいいにおいだった」

 赤とんぼを見るだけでわくわくした。飛行士に憧れ、「大きくなったら自分もお国のため、軍人になって空を飛びたい」。そう思っていた。

 空中戦に見入ってしまったこともあった。

 1945(昭和20)年2月ごろのことだった。市内の自宅近くの上空で、日本軍機と米軍機合わせて10機ほどが急上昇や急旋回を繰り返しているのを見た。時折、乾いた音が連続して聞こえた。機銃だったのだろうか。被弾したらしく、日本軍の1機が薄白い煙を伸ばしながら南の方向へ飛んでいった。母から「早く家に隠れて」と怒鳴られたが、目が離せなかった。桶川から見える東京方面の夜空は時々、朱色に染まった。空襲だったようだ。

 いま、民間エアポートから飛び立つのは、遊覧飛行のための小型機や、人命救助にあたる県防災ヘリコプターなど。天沼さんは「魅せられたのは飛行機だったのか、飛行訓練から伝わってくる殺気だったのか。当時と比べると、穏やかな世の中になったと実感します」と話した。

 桶川分教場の施設内から空を舞う赤とんぼを眺めた人にも話を聞いた。事務員だった東京都立川市の吉池きみ子さん(96)は、そこで伝票整理や郵便物の仕分けをしていた。軍人と直接話す機会はほとんどなかったが、飛行訓練を指導する青年少尉が滋賀県で暮らす母親へよく手紙を宛てていたことを覚えている。「出撃して、いつ死ぬかもしれない、兵士のそんな不安や家族への思いが切なかった」。兵士が空を駆けた当時を忘れられず、自宅には赤とんぼの写真を飾っている。(上田雅文)

 〈熊谷陸軍飛行学校桶川分教場〉 1937(昭和12)年6月、現在の桶川市に開校。少年飛行兵や特別操縦見習士官ら約1500~約1600人が飛行技術の教育を受けた。45年2月に分教場は閉鎖。その後、特攻隊の訓練が行われ、同年4月に12人の特攻隊員が鹿児島県の知覧基地へ向かった。戦後、分教場の建物は引き揚げ者のための市営住宅「若宮寮」として使用された。跡地は現在、2020年8月開館の「桶川飛行学校平和祈念館」(桶川市川田谷2335―16、電話048・778・8512)。