慰霊碑で初めて「会った」お父ちゃん 生存信じ続けた母
「私は父に会ったこともないし、抱かれたこともない」
徳島県牟岐町の坂千代克彦さん(76)は父の顔を写真でしか知らない。父は太平洋戦争のビルマ(現ミャンマー)戦線で26歳で戦死。坂千代さんは生後8カ月だった。「二度と戦争を繰り返してはならない」。その悲惨さを語り継がなければならないとの思いから今年6月、徳島県遺族会会長になった。
坂千代さんの父、秀吉さんは1944年にシンガポールからタイ、ビルマを転戦し、史上最悪の作戦とも言われるインパール作戦に参加。長い行軍と食料不足のためにマラリアと大腸炎を併発して野戦病院に収容された。
部隊は包囲攻撃を受けて全滅状態になり、秀吉さんも生死不明となった。戦後の捜索でも発見されず、3年後に死亡告知書(公報)が届いた。遺品も遺骨もない。母と祖母は戦死したとは思わず、ビルマへ行った人がいると聞くと、県内各地や高松まで話を聞きに行った。
坂千代さんは一人っ子。祖父が体調を崩したため、小学4、5年生のころから一家の大黒柱として田んぼを耕した。「勉強はせんでええ」と言われ、農業を継ぐことを求められた。
「戦争を恨んだ。戦争がなかったら、お父さんもおるやろうし、好きな道が選べたのに」。自分のような思いはさせまいと、3人の子どもには大学に行かせた。
戦後は母も祖父母も戦争については語らず、自分からも聞かなかった。転機は2015年、70歳の時に慰霊の旅でミャンマーを訪れたことだった。「お父さん、連れて来るんけ」。出発前に母親のキヨコさん=2020年に97歳で死去=からそう言われた。父の生存をなお信じていた。
「お父ちゃん、お父ちゃん、お父ちゃんの子どもの坂千代克彦です」。現地の慰霊碑前で生まれて初めて「お父ちゃん」という言葉が口をついて出た。呼びかけると、父と会えていると感じられ涙があふれ、声にならなくなった。遺骨の代わりに現地の石を持ち帰り、墓に納めたという。
戦没者遺児の平均年齢も約8…
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