あこがれていた日の丸を燃やした僕 拒絶した「強制」

有料会員記事沖縄を語る、沖縄から考える沖縄・本土復帰50年

聞き手 編集委員・塩倉裕
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 スポーツイベントの会場に掲揚された日の丸を引き下ろして火を付ける――。今から34年前、沖縄県読谷村(よみたんそん)に住む知花昌一さん(73)はそんな行為をして「非国民」と非難された。動機の根底には、第2次世界大戦末期に地上戦が展開された沖縄戦があった。戦争と国家は、かつての「日の丸少年」の目にどう映ってきたのか。

「非国民」とののしられ、放火された 知花昌一さん(僧侶)

 ――大きな日の丸ですね。白地の部分が黄ばんで、大きな染みが四つ。時間の経過を感じます。

 「10代の初めごろに自分で買ったものです。以来60年、ずっと自宅に保管してきました。日の丸少年だったのですよ、僕は」

 ――1987年に地元・読谷村で開催された沖縄国体の会場で日の丸を引き下ろして焼き、全国の注目を集めた時は39歳。器物損壊などの罪で懲役1年執行猶予3年の有罪判決を受けました。

 「他人の所有物である旗をライターで焼いたので、器物損壊の罪に問われました。ポールから日の丸を下ろした時、観客席から拍手が聞こえたのを覚えています」

 「刑事には『お前は非国民だ』とののしられ、押し寄せた右翼からは『国賊』『殺す』と言われました。経営していたスーパーマーケットは放火されています」

 ――知花さんが生まれる3年前の45年4月1日、読谷村は沖縄戦で米軍の上陸地点になりました。上陸直前の早朝に艦砲射撃の砲弾4万4825発、ロケット弾3万3千発、迫撃砲弾2万2500発が撃ち込まれたとされます。

 「上陸直後、僕の祖父は自分の娘を逃がそうと竹やりで抵抗し、米兵に撃ち殺されています。家族からそう聞きました。戦闘員ではなく民間人だったのに、です」

 ――敗戦後の占領期、日本は米国によって「間接統治」されましたが、沖縄は直接軍政下に置かれました。52年に日本が独立を回復した後も、沖縄は引き続き米国の施政下に置かれ続けます。

 「ええ。子どもの頃の記憶にあるのは、日の丸を揚げるのが禁じられていたことです。沖縄は当時、日本ではなかったから」

日の丸を掲げることは、米国支配への抗議の印だった

 ――その頃、自分は日本人だと思っていましたか。

 「強く、そう思っていました…

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