895年間、毎年続けてきた祭り あの終戦の翌日にも

真田香菜子
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 千葉神社(千葉市)で16日、妙見大祭がはじまった。895年間、一度も休まずに開催してきた神事で、1945年の終戦翌日にも、本殿やみこしが空襲で焼失した中で行われた。昨年に続き、今年は感染症対策としてみこしをトラックに載せ、市内を回った。(真田香菜子)

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 「せーの、よいしょ」。小雨のなか、小さなかけ声とともに朱塗りのみこしがトラックに載せられた。荷台に固定されると、白装束の担ぎ手らが見守るなか、静かに境内を出発した。

 16日、千葉神社で毎年恒例の妙見大祭が始まった。7日間に及ぶ祭りの初日は「宮出し」。「御分霊(ごぶんれい)」をのせたみこしを本殿から出し、千葉城のふもと、市場町の「御仮屋(おかりや)」まで運ぶ。

 例年は担ぎ手が肩を寄せ合い、太鼓やおはやしと市内を練り歩いたが、昨年からは感染症対策として、練り歩きを中止。トラックで、通常より短いルートでの巡回となった。

 妙見大祭は千葉開府の翌年、1127年に始まり、今年で895回を迎えた。「一言願をかければ、必ず達成される」との言い伝えが残り、一度も途絶えたことがないという。

 1945年7月の千葉空襲では、本殿やみこしを含む境内のほとんどを焼失。それでも終戦翌日の8月16日には、急ごしらえの小箱に御分霊を移し、町の人たちが運んだ。当時の宮司のひ孫・山本陽徳(あきのり)禰宜(ねぎ)(42)は、「町の人たちの意地だったんでしょう。家や神社が焼けても祭りはやるんだ、負けてたまるかと」。

 戦後復興期にみこしを担いでいた鎗田(やりた)一己さん(71)は、「昔は提灯にろうそくの火を入れ、夜中まで練り歩いた。今よりも賑やかだった」と懐かしむ。

 みこしは49年に氏子の寄付などで再建。老朽化をうけ、71年に作り直した。たくさんの金飾りで彩られ、朱塗りの屋根に鳳凰(ほうおう)を取りつける壮麗な外観は、戦前から変わらない。

 およそ900年、どんな時にも続いてきた祭り。コロナ禍を理由に中止する選択肢はなかった。神社や氏子は、感染予防策を検討し、この日を迎えた。

 院内祭礼委員会の斉藤昭人会長(54)は、「戦後のお祭りでは、みんな復興を願ったと思います。今日は、神様におみこしからコロナ禍の町の生活を見ていただき、この1年を見守ってもらえたらという思いです」と話した。みこしは22日、神社に戻される。

境内再建に時間「戦争無ければ」 終戦時の宮司の長女・松井清子さん(88)

 12歳のとき、住んでいた境内で空襲に遭いました。当時、千葉神社は今の倍ほどの広さで、宮司の父をはじめ家族で住んでいました。父は神社に残りましたが、私たちは近くの水田に逃げて助かりました。

 翌日、境内に戻ると、あたり一面は焼け野原。地面には焼夷(しょうい)弾の筒が数十本も刺さっていました。山門や本殿も焼け落ち、大きな龍の彫刻や、お祭りに使うおみこしも失われました。

 それから1カ月後に終戦。毎年8月16日に行う妙見大祭は、終戦の翌日もやりました。父は、「どんな時もやるのが当然」という気持ちで、神事を行ったのでしょう。

 その後、市内で大規模な都市整備が始まり、神社の土地を潰して「妙見通り」という道路が通りました。当時、千葉銀座通りを埋めていたヤミ市も、一時的に境内に移されました。バラックを建てて住みつく人もいたんですよ。

 父や夫は境内の再建に取り組みました。終戦から4年後の49年にはおみこし、54年には今の天神社となる本殿が完成。90年には朱色の本殿ができ、現在の姿に。「これで神社が完成できた」とほっとしました。

 今では、七五三やお払いなど、戦前のように多くの人が訪れるようになりました。それでも、以前の姿にしたくて、周囲に土地が出れば少しずつでも取り戻すようにしているんです。

 戦争に良いことなんてひとつもありません。空襲は、国家が火付けをしているようなもの。「戦争さえ無かったら」と、どれだけ考えたか分かりません。(談)