日常はカーキ色、ひとときのゼリー色 今でも覚えている

知る戦争

西堀岳路
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 カラフルなランドセルを背負った小学生の列、スーパーに並ぶ色とりどりの商品、鮮やかな服を着た若者たち――世の中に多彩な色があるのは「豊かさと平和の象徴」。女学生時代に戦争があった女性は言った。あの頃は国防色と呼ばれた茶褐色に支配された世界だったからと聞き、その対比に体験の重みを感じた。

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 1944(昭和19)年夏、埼玉県立川越高等女学校(現・川越女子高校)の体育館「雨天体操場」に、数十台の動力ミシンが設置された。それまでダンスの練習などに使っていたが、陸軍被服廠(しょう)の分工場となり、兵士のシャツ「夏襦袢(じゅばん)」やズボン下「袴下(こした)」を作ることになったのだ。

 3年生で14歳だった松本信子さん(91)=埼玉県日高市=ら生徒たちが動員され、ポケットのふた、前身頃、袖などの部品、それらの縫い上げを分担した。布ぼこりがたちこめ、夏は蒸し風呂のような暑さ。冬は手に息を吹きかけて作業した。空襲警報のたびに、校庭の防空壕(ごう)へ駆け込んだ。

 強く心に残るのは軍服生地と糸の国防色だ。被服廠の指導員や学校の先生たちが着る国民服も国防色。校舎は暗い灰色、通学で乗る電車は汚れたような茶色。敵機に目立つことは死につながった。自宅では土蔵の白壁を黒く塗り、夜は灯火管制のため電灯に布をかけて室内を暗くした。身の回り、見える範囲は、暗い、くすんだ色しかなかった。

 そんななか、学校で配られたゼリー菓子が、鮮やかな色の記憶だ。「パラフィン紙で両端をねじって包んであって、一人5、6個。赤、緑、紫みたいなの」

 帰宅して両親や弟たちに配ると、自分には赤色の一つしか残らなかった。食べるのがもったいなくて、光に透かすなどして、しばらく見とれた。少しずつかじると、ようかんに似た歯ごたえがした。「甘いお菓子を食べたかったけど、もうどこにもありませんでしたからね」。そのころは、肝心のおかずでさえ、芋のつるや葉っぱなどだった。

 ある日の下校時、東武東上線霞ケ関駅で、線路脇に遺体が横たえられているのを見た。1本前の列車が米軍機の機銃掃射にあったという。「(遺体が)1年上の先輩だったと聞いたので、自分の命もどうなるかわからないと実感した」と松本さん。自宅も機銃掃射を受けた。壁の破片が飛び散り、兄の布団に穴が開いた。「(米軍戦闘機の)P51は、ひゅーっと急降下してくる。とにかく速いんです。怖かった」

 4年生の夏に戦争は終わった。「『戦地で兵隊さんが着る服なんだ』と作業に励み、必勝を信じた日々は何だったのかと、むなしかった。でもなにより、死なずに済んだと思った。自由に電灯をつけて明るくなることがうれしかった」。この、色と明るさの体験が、松本さんの平和を願う気持ちをずっと支えている。(西堀岳路)

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